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21 留学から帰国
音大時代の伴奏者と結婚 初のコンサートは地元で 日本帰国前、クリエンス吹奏楽団の仲間がプレゼントしてくれた寄せ書き 1977年、ソリストディプロマの資格を取った私は将来のことを考えるようになりました。スイスには大切な師のシュタルダー先生やイヨルクはじめクリエンスの仲間がいて、地元の学校で教え、吹奏楽団の指導やオーケストラでの演奏の仕事も充実していました。将来的にスイスで安定した生活が送れるだろうと思いました。 一方で将来が見えてしまったようにも感じました。私が欧州に来たのはクラリネットの勉強をするため。「音楽学校卒業」という目標を達成したら日本に帰国するのは自然な流れです。留学中に一度だけ帰国した際に母はかなり年老いたように見え、「このまま帰って来ないのか」と言われた時は切なくなりました。 一時帰国からスイスに戻ると、シュタルダー先生から「トーンハーレ交響楽団の入団試験があったので君を探したのに…」と叱られました。オーケストラは団員に空きができた時に試験を行います。先生は私に入団試験を受けさせたかったのですが、私は一時帰国していたため試験を


20 民俗音楽「レントラー」
パブで演奏「上手」と評判に ラジオ局に招かれ演奏も フレディ宅で夫妻と私(右) スイスやドイツ南部の各地に伝わる民俗音楽にレントラーがあります。スイスでは軽快なテンポやリズムのものが多く、スイスの山々が思い浮かびます。スイスのレストランやパブには、レントラーを演奏できるようにコントラバス、アコーディオン、ピアノ、ドラムなどが置いてあることも珍しくありません。演奏すると盛り上がり、演奏に合わせて手拍子や掛け声がかかり、踊り始めます。 私が参加していたクリエンス吹奏楽団でも、練習が終わってパブに行き、みんなで飲んで食べて盛り上がると、自然とレントラーの演奏が始まりました。私は初めは聞いていただけでしたが、何度か通ううちに仲間に促されてクラリネットでレントラーの演奏に参加するようになりました。 お酒が入っていたこともあり、気分良く演奏していると、周りのお客さんから大きな拍手が起こりました。席に戻ると、知らない人がよくお酒をごちそうしてくれました。きっと、初めて見る東洋人がレントラーを乗り良く演奏していることに驚いたのと同時に、うれしかったのだと思


19 クリエンス吹奏楽団
日本人指導者に温かく 素晴らしい仲間に感謝 オランダに演奏旅行した時のクリエンス吹奏楽団 私は、「バーゼル音楽院」に入学後も住居を変えずに、イヨルクが紹介してくれた「クリエンス吹奏楽団」を指導しました。団員にとって私は初めての日本人指導者だったと思いますが、大歓迎してくれました。 私が入団して約半年後に行われたオランダへの演奏旅行では、私にも制服を作ってくれました。国境での入国審査の際、バスの車内に入ってきた検問官は最前列に座る私が明らかに東洋人だと思ったようでしたが、「全員スイス人か」と質問しました。すると、団員みんなが「そうだ」と声をそろえました。私はびっくりしましたが、ビザの確認が面倒だったのか検問官が何もなかったようにバスを降りると、車内は大笑い、どっと盛り上がりました。私は「スイス人」としてクリエンス吹奏楽団の一員に認められたと感じた瞬間でした。 アマチュアの吹奏楽団でしたが、スイスの風土に培われた音楽性はしっかり持っていて、地元の祭りやイベントでは見事な演奏をしていました。練習後はパーティーになり、お酒と食事を楽しむと最後は決ま


18 イヨルクさん
腕の良い楽器職人と再会 家族ぐるみの付き合いに イヨルクさん(左)の店で試奏する私 スイスでは運命的な再会がありました。私がドイツのケルン音楽院に在籍していた頃、スイスのルツェルンで行われたシュタルダー先生の「マイスターコース」に参加しました。しかし、持参したクラリネットが壊れてしまい、スイス人の受講生に楽器修理店はないか聞くと、とてもいい修理店があると教えてくれました。その店に行くと、見覚えのある職人が出てきました。フランスの管楽器メーカー「ビュッフェ・クランポン」の日本支店にいたイヨルク・ローリーさんでした。 私は武蔵野音楽大学の学生だった頃、楽器の修理などのために同店を利用していました。日本で入手が難しいフランスの楽譜があり、おしゃれでフランスの雰囲気を感じられる音大生憧れの店でした。彼は本社から派遣されていた唯一の外国人社員であり、とても目立っていたので覚えていました。彼も私を覚えていて「まさかルツェルンで会えるとは」と再会を2人で喜びました。 イヨルクはビュッフェ・クランポンを退職後、独立してルツェルンに自分の店舗兼工房を構えまし


17 シュタルダー先生に師事
新視点で作品捉える姿勢 ソリストディプロマ取得 シュタルダー先生の自宅で古楽器を演奏する先生(右)と私 シュタルダー先生はいつもブラウンのブルゾンを着て、車はシトロエン。ゆっくりトコトコ走る車で、私たちはエンテ(アヒル)と呼んでいました。ファッションにはほとんど関心がないようでしたが、ユーモアのある静かな紳士でした。 先生の奥さんはフルート奏者で、父親のブルクハルトさんはスイスのとても有名な作曲家でした。チューリッヒにある先生の自宅は派手ではなく、落ち着いた品のある瀟酒(しょうしゃ)な家で、家からチューリッヒ湖が見えました。先生は私に「大丈夫か」「お金はあるのか」とよく心配してくれました。おばあさんも、私が日本の湯のみ茶わんをプレゼントすると喜んで、いつもその茶わんで紅茶を飲んでいました。 先生はシュタルダー木管五重奏団を率いて現代音楽の新しい作品を初演したり、充実した演奏活動をする一方で、古楽器コレクターでもありました。 クラリネットは、16〜17世紀ごろにフルートやオーボエ、ファゴットが誕生・普及した後の18世紀初めに誕生した、木管楽


16 スイスに移住
作曲科に籍 難解な授業 1年後バーゼル音楽院へ ルツェルン音楽学校を再訪した際の私(右)と楽器職人のイヨルクさん 初対面の時のシュタルダー先生は落ち着いた紳士といった印象で、何よりフランス式のクラリネットの演奏がスマートでした。 講習会で私の演奏を聴いた先生から「スイスに来られるなら教えてあげる」と言われ、私はスイスに行こうと決めました。しかし、先生が「バーゼル音楽院」(現・バーゼル音楽大学)で教えるのは1年先のこと。スイスの学生ビザを取る必要がある私のために先生は、友人のバイオリニストが学長を務める「ルツェルン音楽学校」の入学を取り計らってくれ、知り合いのペーター・ベナーリ先生が教える作曲科に籍を置くことになりました。私は作曲の知識などまったくなく戸惑いましたが、シュタルダー先生自ら尽力してくれたのはうれしかったです。 入学手続きはシュタルダー先生がしてくれ、私のスイス移住の保証人にまでなってくれました。今思えば、シュタルダー先生にとって日本人に教えるのは初めてだったろうし、どこの馬の骨とも知れない若い留学生をよく世話してくれました。..


15 クライン先生
「ドイツ式に変えなさい」 度々言われ気まずくなる 寮の部屋でクラリネットの練習をする私 私がケルン音楽院(現・国立ケルン音楽大学)で師事したフランツ・クライン先生は、世界的にも知られる「バイロイト祝祭管弦楽団」のメンバーでした。 ドイツにはオペラを上演する歌劇場がたくさんありますが、「バイロイト祝祭管弦楽団」は、各地にある歌劇場のトップクラスの奏者をえりすぐって編成され、先生は、その中でソリストを務める実力者でした。切れのいいスタッカートをワンブレスで2分間も続けてしまうパワーとテクニックは信じられないものでした。 クライン先生に初めて会った時は、名前に反して相撲取りのような巨体に驚きました(ドイツ語でクラインは小さいという意味)。先生がクラリネットを持つとまるでおもちゃのようでした。レッスンでは、何か気に入らないことがあると、ぷいっと怒って部屋を出て行くことがありました。私たちが困っていると、しばらくしてコーヒーを片手に戻って来て、何事もなかったように「さあ、始めて」とレッスンを再開することが何度もありました。 レッスンではエチュード(


14 寮生活
ビール片手に異文化交流 私の作る日本食が評判に クリスマスの頃。寮のキッチンで ドイツに着いて約半年後にようやく寮に入ることができました。寮には、私の留学先のケルン音楽院(現・国立ケルン音楽大学)のほかにも総合大学や舞踊学校の学生もいました。バレリーナは驚くほど細く、寮の食堂などで踊ってくれたときの姿は素晴らしく、その場にいたみんなが「ゼアシェーン(とても美しい)」と拍手しました。 部屋は1人部屋と夫婦やきょうだい向けの2人部屋があり、留学生も入っていました。食堂では自炊もでき、ビールも飲めました。大学の講義の後、学生がビール片手に食堂に集まり、「異文化交流」をしました。私は片言のドイツ語にジェスチャーを交えながら会話を楽しみました。 寮に入ってしばらくして、私なりのドイツ語勉強法として、日本の昔話をドイツ語に訳してみんなに話して聞かせることを思いつきました。「桃太郎」の話を食堂でした時には、「亀の背中に乗って海の中の竜宮城に向かうと…」と話し始めると、聞いていた学生が「それはおかしい。海の中は呼吸ができないはずだ」と言ってきました。私は日


13 留学先のドイツへ
下宿先すぐに決まらず 日本人修道女の世話に ケルンの寮のロビー前で。左が私、右端が鈴木君 1973年、私はドイツのケルンに留学しました。出発前に村井先生は、留学中同じクライン先生に師事するからと鈴木豊人君を紹介してくれました。初めての海外生活なので知り合いがいれば心強いと思ったのでしょう。 鈴木君は大阪出身で桐朋学園大学の卒業生。話しやすく、羽田空港からの飛行機の手配は鈴木君がしてくれました。運賃が安いものの香港、ニューデリーの空港など3、4カ所経由する南ルートにしたため、飛行時間が長く、ドイツのフランクフルトに着いたのは羽田をたってから約30時間後でした。空港や機内から見える風景など、最初は興味津々で見ていましたが、あまりに長い飛行時間と先行きの不安も加わり、とても窮屈に感じました。唯一、香港の空港内の免税店で初めて海外の雰囲気にふれた思いをしました。 やっと着いたフランクフルトの空港には、先に留学していた武蔵野音楽大学の先輩が迎えに来てくれ、先輩の顔を見た瞬間、ほっとしたのを覚えています。ケルンへは列車で向かいました。「ケルン音楽院」(


12 「毎コン」入選
「この道で頑張ろうか」と 村井先生の勧め 独に留学 約30年前、長野市を訪れた村井先生(左)と私 1972年、武蔵野音大4年生の時、日本の権威あるコンクールの一つ「毎コン」(現・日本音楽コンクール)に出場しました。期待の反面、不安や焦りもありました。本選出場者にはモーツァルトのコンチェルトを暗譜で吹く審査があること、私のピアノ伴奏者が留学を控えた優秀な学生でしたが、ライバルとなる出場者の中には有名なプロの伴奏者に頼んでいる人もいたことなど、情報のなさを感じました。 1次、2次の予選で課題曲を演奏し、基礎力と表現力を審査され本選出場者が決まります。私は本選出場者6人のうちの1人に選ばれました。武蔵野音大から何人も出場しましたが、本選に残ったのは私一人でした。 私の1年先輩に、69年の毎コンで3位になったファゴットの岡崎耕治さんがいました。演奏楽器は違いましたが私が目標とする一人でした。クラリネットでは2年生の時の先生だった松代晃明先生以来11年ぶりの本選出場になり、大学で評判になったようです。 本選に選ばれた時は「本当なのか」と信じられない


11 村井先生との出会い
「揺らぎ」や「響き」を大切に 新しい世界が見えた思い クラリネット科の親友らと(中央が私) 村井祐児先生との出会いは大学2年生の時でした。村井先生は留学先のドイツから帰国して武蔵野音楽大学の1年生を教えていました。村井先生の指導で1年生の演奏がめきめき上達しているのを見て、焦りを感じるようになりました。なぜ1年生がうまくなったのか。その理由は村井先生の指導によるものではないか—。そう考えた私は村井先生の演奏会に出かけました。 演奏会の印象は、村井先生とステージにいたバイオリンやチェロ、トランペットなど共演者の顔ぶれのすごさでした。欧州留学で腕を磨き、戻ってきてから日本のクラシック界に新しい風を吹かせ始めた若手ばかりを共演者に選んでいました。曲目もモダンで、ストラビンスキーやアルバン・ベルクなど、当時としてはかなり前衛的な曲を演奏していました。村井先生の演奏は素晴らしく心の底から感動しました。村井先生には時代の先を見る目があると感じ、師事したいと思いました。 村井先生に個人レッスンをお願いすると、快く引き受けてくれました。村井先生のレッスンで


10 妻との出会い
親友紹介のピアノ伴奏者 息が合い試験では「S」評価 結婚後は、何度も夫婦でステージに立ちました 武蔵野音大1年生の秋、ピアノ伴奏に合わせてクラリネットを演奏する試験がありました。 ピアノ科の学生に伴奏をお願いしようにも知り合いがいないので苦労していると、親友の尾崎君が私より1歳年下のピアノ科の学生を紹介してくれました。 ピアノ伴奏を付けるのは初めてで、吹奏楽部を離れて一人でクラリネットを演奏することに慣れていた私は急に足かせを付けられたような不自由さと不思議な感覚があり、ピアノとの合奏はなかなかうまくいきませんでした。 当時、1年生ながら奏者として目立つ存在だった私を生意気だと思っていた先輩もいたようです。練習室で合わせていると、前を通りかかった上級生や大学院生らは「伝田、そこはそうじゃないよ」と声をかけてきたり、練習室の中に入り込んで椅子を引っ張り出して座り込み、長時間いろいろ指摘されたりもしました。ピアノの伴奏に関してまでアドバイスしてきたこともありましたが、私は上級生には表立って嫌な顔もできず苦笑いするしかありませんでした。...


09 武蔵野音大入学
新しい世界にわくわく 学園祭での演奏が話題に 友人と(左端が私)。武蔵野音大の校舎は当時としてはとてもおしゃれだった 1969年4月、武蔵野音楽大学クラリネット科に入学しました。これからは新しい世界に行ける—と、わくわくした気分でした。 高校3年生の夏から約1年半、千葉国夫先生に厳しく鍛えられたおかげで、入学した時点でエチュード(練習曲)はかなり進んでいたので、全学年から選抜される学内オーケストラにも1年生から参加できました。 1年生の冬、来日中のフランスの著名なクラリネット奏者ジャック・ランスロさんが大学を訪れ、4年生と大学院生に公開レッスンをしました。私が友人とキャンパス内にいた時に千葉先生から突然呼び出されて行ったところ、ランスロさんの作ったエチュードを本人の前で吹くように言われました。 私は特にプレッシャーを感じることもなく素直に吹いたと思います。吹き終わった後には、通訳を通してランスロさんから「フランスに来たら教えてあげます」と言われました。千葉先生に「どうするのか」と聞かれた私は、「もっと勉強してから考えます」と答えると、先生


古墳時代から現代まで
「疫病退散」「除災」資料展示 県立歴史館 平城宮・平城京跡から出土した祭祀具が並ぶコーナー 千曲市の県立歴史館は11月16日(日)まで、秋季企画展「疫病退散!除災祈願の考古学〜木製祭祀具にみる古代の祈り」を開いています。 千曲市屋代遺跡群の発掘調査で大量に出土した7〜8世紀にかけての「木製祭祀具」と、同時代の藤原京と平城京の都城跡から出土した「木製祭祀具」を中心に、古墳時代から現代まで「疫病退散」や「除災」を願う人々の祈りにまつわる資料計356点を展示しています。 7世紀末から8世紀初めにかけては全国各地で天然痘など疫病が流行。医療が発達していなかった当時、国は神社や寺院に祈祷を命じたほか、災禍や罪、けがれを取り去るために、人形(ひとがた)などの祭祀具を用いた「祓いの祭祀」を行うことで疫病退散を願ったといいます。 展示では、祭祀に用いた土器や土馬(どば)などの土製品、鈴などの金属製品、人や馬、鳥などをかたどった形代や斎串(いぐし)といった木製品などを時代や地域別に紹介しています。 屋代遺跡群の出土品では独自のものとされる蛇形の木製祭祀具


08 1年間の浪人生活
音大受験勉強に明け暮れ 厳しくとも楽しい時間も 武蔵野音大生となった私(前列左)と千葉先生(後列左端) 現役時に東京芸術大学と桐朋学園大学の受験に不合格となった私は、東京の音大受験生向けの予備校に入りました。しかし、当初は友達のアパートに居候していて帰宅後の練習場所がなかったため、3カ月ほどで長野の実家に戻ることにしました。兄が知り合いの職人さんに頼んで、実家の私の部屋に吸音材を取り付けて防音室にしてくれたので、楽器の音を気にせず練習に打ち込むことができました。また、ピアノと歌唱、ソルフェージュをまとめて教えてくれる先生のレッスンを受け始めました。 千葉国夫先生の東京でのレッスンにも月2回、夜行列車で通いました。先生は、私が音大受験に失敗したことに対して、特に何も言いませんでした。 先生の指導では、基本である正しいリズムと音程はもちろんですが、「いい音とはどういう音かよく考えろ」とよく言われました。口下手で口数の少ない先生でした。それだけに、まれに「それでいい」と褒められた時の喜びは余計に大きく感じました。指導を受けるうちに次第に何が悪くて


07 東京へレッスン通い
先生宅は生徒が全国から 生の演奏聴き大きな刺激 高校3年生の修学旅行で京都・奈良を訪れた時の私 高校3年の夏休み、私は、東京・江古田の武蔵野音楽大学で開かれた音大受験生向けの夏期講習会に行きました。東京は中学の修学旅行以来で、音大のキャンパスを見るのは初めてでした。キャン...


06 長商吹奏楽部
クラリネットに夢中に 顧問の勧めで音大目指す コンクールで、大きな振りで指揮をする私(手前) 1965年4月、長野商業高校に進学した私は迷わず吹奏楽部に入りました。高校では好きな楽器を選ぶつもりでした。 メロディーを演奏する楽器が絶対条件で、まず希望したのは金管楽器の花...


05 柳中吹奏楽部
単調な「後打ち」練習に落胆 リズムの大切さを教わる 中学生の頃、休日に訪れた善光寺六地蔵の前で 昭和30年代の柳町中学校は、生徒数が多い県内屈指のマンモス校でした。私が入学した1962(昭和37)年は1年生が14組、2年生は15組、3年生は16組もありました。...


04 合唱団に入る
音楽にふれた最初の経験 人前で披露 気持ちよく 仲良くしてくれた病院の先生の研究室に行った時の私 1956(昭和31)年、権堂町にほど近い鍋屋田小学校に入学した私は相変わらず、友達と権堂町の道端で「パッチン」をして遊ぶことに夢中でした。7歳上の兄はすでにパッチンを「卒業」...


03 活気にあふれた権堂町
通りは人であふれ店繁盛 映画館の隣に「丸光百貨店」 秋葉神社裏にある国定忠治の墓 「赤城の山も今宵を限り…」のせりふで有名な江戸時代の侠客国定忠治。権堂町は、娘を身売りした農民を忠治が助けた逸話の舞台で、忠治の墓が秋葉神社裏にあります。明治屋の横にあった「忠治柳」は残念な...
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