18 イヨルクさん
- 2025年12月31日
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腕の良い楽器職人と再会 家族ぐるみの付き合いに

スイスでは運命的な再会がありました。私がドイツのケルン音楽院に在籍していた頃、スイスのルツェルンで行われたシュタルダー先生の「マイスターコース」に参加しました。しかし、持参したクラリネットが壊れてしまい、スイス人の受講生に楽器修理店はないか聞くと、とてもいい修理店があると教えてくれました。その店に行くと、見覚えのある職人が出てきました。フランスの管楽器メーカー「ビュッフェ・クランポン」の日本支店にいたイヨルク・ローリーさんでした。
私は武蔵野音楽大学の学生だった頃、楽器の修理などのために同店を利用していました。日本で入手が難しいフランスの楽譜があり、おしゃれでフランスの雰囲気を感じられる音大生憧れの店でした。彼は本社から派遣されていた唯一の外国人社員であり、とても目立っていたので覚えていました。彼も私を覚えていて「まさかルツェルンで会えるとは」と再会を2人で喜びました。
イヨルクはビュッフェ・クランポンを退職後、独立してルツェルンに自分の店舗兼工房を構えました。腕のいい管楽器職人で、店は有名でした。店は、道具がきちんと整理され、ディスプレーや色使いなどとてもおしゃれでした。自宅もすてきで、車庫のある入り口から自宅玄関まで山肌に沿ってケーブルカーを設置してあるのには驚きました。広いリビングの一面の窓からはルツェルン湖を見下ろせました。
私がルツェルンに住むと決めると、イヨルクは部屋を世話してくれました。朝夕の食事がついてクラリネットの練習ができ、ベランダからはルツェルン湖が見える素晴らしい部屋でした。丘の上のルツェルン音楽学校の少し下にあり、学校がかつて城だったことから、城主に仕える貴族の館だったのかもしれません。アパート近くの道路標識には「シュバイツァーハウスシュトラッセ(スイスの家通り)」と書いてありました。私がバーゼルに引っ越さなかった理由の一つがアパートをとても気に入ったからで、帰国まで住み続けました。イヨルクとは頻繁に会い、彼の自宅に行くと3人の子どもたちが「タカ」「タカ」と私を呼んで、元気に出迎えてくれました。
イヨルクとは今でも交流が続いています。私が日本に帰国後、仕事で来日したイヨルクから突然、「2日間だけ自由に行動できるので長野に行く」と連絡がありました。東京で働いていたことがあるとはいえ、日本語が上手とはいえない彼が一人で無事に長野まで来られるか心配でした。
案の定、当日、予定の特急列車が到着しても改札口に彼は現れず、私はとても心配しましたが、しばらくして普通列車でやって来ました。車内アナウンスの「次は長野」の「次」が聞き取れず、一つ手前の駅で降りてしまったようで、「篠ノ井」という名前は一生忘れないと言っていました。
私の家で風呂に入った時には、湯船にたっぷり湯を張って入る日本の習慣に慣れてないためか、「お湯がいっぱいで、溺れるかと思った」と言い、妻と大笑いになりました。
翌日は、私が長野で楽器の修理を全面的に依頼している「浅井管工房」に連れて行きました。初めての日本の専門店は新鮮だったようで、店内をくまなく見て回って写真を撮り、楽器職人同士気が合うようで、とても楽しそうに話していました。善光寺参りの後、かいわいを散策し、お土産を買いました。初めての長野は楽しいものになったようでした。2回目の来日は家族で、3回目は夫婦でと、家族ぐるみの付き合いは続き、私たち家族がスイスを訪れるたびみんなで温かく迎えてくれます。
(聞き書き・斉藤茂明)
2026年1月1日号掲載



