15 コンクール荒らし
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15 コンクール荒らし

店には内緒で大会に出場 念願の全国優勝を果たす

美容コンクールで表彰された私(後列左から2人目)

 パリで開かれた美容業界の国際見本市に、アシスタントとして同行するチャンスを手に入れたものの、ステージでいきなり金髪のモデルのブローをすることになり、質感の異なる金髪を何度試みても仕上げることができなかった私。この「失態」から立ち直るには、美容で結果を出すしかないと考えました。帰国から間もなく、私は美容コンクール(大会)への挑戦を始めました。

 それまでは、店で先輩から技術を指導してもらうことが上達への道だと思っていました。しかし「本物のプロフェッショナルになるためには、教えを待つだけの受け身の姿勢では駄目だ」と気付いたのです。

 先輩からは「大会はまだ早い」「そんな腕で出るなんて店の恥だ」とも言われました。なので、店には内緒で出場することにしました。

 閉店後の練習に加え、定休日は一日中、友達が勤める美容室で練習したり、美容メーカーが開く無料講習会に出かけて勉強したりしました。

 社宅が廃止されたので、3畳一間の部屋で生活していました。月給約3万円で家賃は5千円。大会の出場料を捻出するため、食費を削り、洗面所で体を拭いて銭湯代も節約しました。

 片っ端から大会に出場していた最初の頃は、賞にかすりもしませんでした。ただ、審査員にも好みがあること、特に審査委員長の点数が賞に影響していると気付きました。やみくもに挑むのではなく事前に審査委員長の好みのスタイルを調べ、完璧にコピーできるよう練習してから出場するようにすると、少しずつ入賞できるようになっていきました。

 大会ごとに違う審査委員長の好みを練習することで多様なスタイルをマスターできました。また、厳しい評価にさらされることで自分では気付かない欠点を知ることもできました。得意を増やし苦手をつぶしていく。これを積み重ねるうち、自分でも腕が上がっていると感じるようになりました。

 出場者同士のつながりも収穫でした。大会で顔を合わせるのは毎回同じような顔ぶれでした。自腹を切り休日をつぶしてまで大会に臨む連中はみんな、ギラギラした目をしていました。年齢も学歴も、どの店で働いているかも関係ない。ただ「美容師として成功したい」という志でのみ、つながった仲間でした。

 なかでもTさんのことは懐かしく思い出します。ある大会でTさんは「もうお金が続かない。今回優勝できなければ大会に出るのをやめる」と悲壮な覚悟で出場。見事優勝し、子どものように飛び跳ねて喜びを爆発させていました。Tさんはいま、美容業界最大手の会社で幹部を務めています。

 大会に出ることはとにかく面白かった。入賞すれば励みとなり、落選すれば勉強し直してまた挑む。大会という名の「他流試合」で得られる成果は、小さな店の中で先輩の顔色をうかがいながら教えを乞うこととは次元が違いました。

 大会に挑戦する生活は5年近く続きました。1977年に新美容出版主催の大会で優勝した私は、その後は海外の大きな大会にも出場するようになります。

 店に隠れて大会に出始めた私ですが、いつしか美容業界で「コンクール荒らし」と呼ばれるようになっていました。

聞き書き・村沢由佳


(2021年12月18日掲載)

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