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私の歩み 森貘郎さん
My history Mori bakurou


07 鎌倉暮らし
ムンクの版画に衝撃受け 油絵にも負けない表現力 初めて作った句集「赫土抄」 代々木の新聞販売店で一緒にバイトをしていた友達が大学卒業後に入った出版社を辞めて業界新聞社に転職し、僕もその会社に誘われました。社長面接にジャンパーとジーンズ姿で行ったら「それじゃ仕事にならない」と、百貨店で背広を買ってくれました。初めての背広で今も大事に取ってあります。 この業界新聞社には2年ほどいました。主に集金の担当でしたが、企業の取材をすることもありました。業界のある企業が問題を起こしたことを知り、取材を始めたところ、副社長から呼び出され「お前はこの話から手を引け」と言われたんです。業界紙とはこのようなものかと、会社を辞める決心をしました。あまり向いていないなと。 僕は友達の寮に転がり込みました。その友達は趣味で油絵を描いていたことから、僕も油絵を描くようになりました。辞めた業界紙の社長は画廊も経営している人で、僕が油絵を描いていることを聞いて僕を呼び出し「あんた、絵を描くのか。なら、静物と人物と風景を描いてこい」と言いました。僕は画材屋でボードを3枚と絵の


06 新聞販売店勤務
大学進学目指して上京も 予備校は1カ月でやめる 上京して、新聞販売店などでのアルバイトをしていた20代半ばごろ 屋代東高校(現屋代高校)を1年余計に通い、自称「文学青年崩れ」の僕は早稲田大学の文学部を受験しました。 歴史か国語で大隈重信に関する設問が出ました。それを見て嫌になっちゃってね。大学とすれば創立者のことは知っておいてほしいという気持ちだったのでしょうか。僕は宣伝みたいに思えてその問題に答えはあえて書きませんでした。そのためか分かりませんが不合格でした。 高校の記念行事に招かれた哲学者の務台理作先生が「大学は一生の友達をつくりに行くところだ」と話されたことが印象に残り、大学進学を目指していた僕は、東京の予備校に通う選択をしました。 家からの仕送りなど当てにできないので新聞販売店に勤めました。当時、新聞配達をしながら大学や夜学に通う学生が多くいました。 新聞配達をして2カ月ぐらいしてからは集金も担当しました。僕の主任だった人は、集金途中の僕たち配達員を喫茶店に呼び出して、「俺が預かるから」と言って集金したお金の一部を徴収するんです


05 落第を経験
校長先生から通告される 図書館長の配慮で助かる 屋代東高校の図書館の前で 屋代東高校(現屋代高校)で僕は図書委員になりました。図書館は新築したばかりで校舎と別棟にあり、鉄筋コンクリート造りの洋風でしゃれた外観でした。図書館を校舎と別棟に建てたのは長野県内で初めてとのことで、長野や上田、伊那などの高校から先生が視察に来ていましたね。「蔵書1万冊」がうたい文句でしたが、実際にはそこまではなかったように思います。 図書館での思い出といえば、自衛隊が入隊勧誘のため、自衛隊の活動を紹介した映画を図書館で上映したことがありました。生徒の入隊を前向きに考える先生もいれば反対の先生もいました。一番の反対派の国語の先生が映写機のコンセントを抜くなど〝妨害工作〟をしたものですから、図書館が騒然となりました。 僕はその時、社会科研究室で遊んでいたのですが、友達が「大変なことになっている」と呼びに来たんです。図書館では、前の方では映画を見ようとしている生徒がいて、後ろに校長先生をはじめ何人もの先生が取り囲んでいました。 映画は「災害時などに国民の生命を守るのが自


04 杏の里板画館
築200年「千本松の家」「つくる会」で購入資金募る 千本松(手前)と杏の里版画館(奥の建物) 本来であれば、高校時代の話をするところですが、僕が主宰する千曲市森の「杏の里板画館」が冬季休館を終えて営業を始める4月1日が近づいているので、今回は板画館のことを紹介させてください。あんずまつりも5日まで開かれています。 板画館は築約200年にもなる古民家で、地元では「千本松の家」と呼ばれてきました。江戸時代から大正末期まで4代続いた漢方医の屋敷で、終戦後は引き揚げ者家族が5組も住んでいたほどの広い建物です。2階の上部に上座敷があって、屋根裏部屋もある5層構造のような造りです。 この家のシンボルツリーである千本松は1976(昭和51)年、更埴市(現千曲市)の保存樹木に指定されました。幕末には佐久間象山が何度もこの家を訪れたといい、千本松は「象山駒つなぎの松」とも呼ばれています。アカマツの変種の「(多)(た)(行)(ぎょう)(松)(しょう)」で、根元から枝分かれして見事でしたが、86(同61)年、僕がここに越してきて間もなく、春先に降った大雪の重みで


03 屋代中学時代
理科の設問で先生に文句 かわいがってくれた先生も 中学の修学旅行で。前から2列目の左端が私 僕の通った屋代中学校は、旧屋代町や旧森村などでつくる組合立の中学校でした。できたばかりの学校で1年生から通ったのは僕の学年から。一学年250人ぐらいいました。 近所の2歳上の「にっちゃん」と森街道を歩いて通いました。にっちゃんは靴、僕は下駄。しかもにっちゃんはバスケをやっていて歩くのが速い。走るようにして始業時間ぎりぎりに校門を通過していました。ちゃんとした図書室があって、しょっちゅう行ってました。図書室の先生にもかわいがられました。 2年生の理科の時間、テストで「メンデルの法則」についての問題が出ました。その設問が、問題集で見覚えのある文章だったのですが、少し違う表現になっていました。先生が、問題集と全く同じではいけないと思って変えたのでしょう。しかし、よく読むと問題集とは違う解答になってしまうんです。熟考の末、問題集とは違う解答を書きました。 そうしたら職員室に呼ばれて「間違えたのは学年で2人だけだ」と怒られたのです。でもこっちにも言い分がある


02 両親のこと
ひょうきん者のおやじ 幼少期に苦労 耳学問の母 3歳のころ、父と兄、姉と 僕は現在の千曲市森の岡地(おかじ)という、35軒くらいの小さな村で生まれ、育ちました。僕の家は村の中でも最も貧乏でした。小学校入学前の友達は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者や疎開者の子どもたちで、山の方まで行って食べ物を探す「どろぼーごっこ」をして遊んでいました。 森地区は今でこそ「一目十万本」の「あんずの里」として知られていますが、当時は家の周りに自家消費するアンズの木がある程度で、アンズ畑というものはありませんでした。アンズの種を漢方薬用に売って、実を干したり煮詰めたりして食べていました。戦後、農協がアンズのジャムを作る工場を造り、アンズ栽培が盛んになりました。 ひいおじいさんか、おじいさんが馬を育て主に新潟県の高田の軍隊に納める仕事をしていたと母から聞いていました。つまり「博労(馬喰=ばくろう)」です。僕の貘郎はそこから来ています。 日清戦争の頃は木曽馬のような小型の馬でも良かったのが、日露戦争になると兵隊が乗るのは大型の馬でなければいけないとなり、博労


01 棟方志功に引かれて
板画の作品と思想に学び 「杏の里板画館」開き31年 「杏の里板画館」隣の「板遊舎」で 版画を彫り始めて51年、生まれ育った千曲市森に「杏の里板画(ばんが)館」を開館して31年になります。まったくの我流で、専門的に絵を学んだこともありません。あれもやり、これもやりの人生でした。 父は絵がうまい人でした。母校の小学校には長いこと父の絵が展示されていたと聞きました。姉が中学生の時にすごろくを作りたいといったら父が絵を描いてくれて、「ああ、親父うまいんだな」と子ども心に思ったことがあります。 僕も絵が好きでした。中学1、2年の時の先生がよく絵を見てくれました。絵を見てほしくて、「クロッキー帳」(速写画を描くための薄い紙を束ねたスケッチブック状のノート)を持って出かけてはいろいろ描きました。先生から油絵をやらないかと言われたことがありましたが、家が貧乏だから油絵具なんて買えません。水彩画は友達の水彩絵の具を使って描いていました。その代わり友達の絵を描いてあげていました。ランプの灯油と水彩絵の具で油絵みたいに描いてみたことがあります。ところが、石油臭く
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