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11 宮入聖さん

  • 5月23日
  • 読了時間: 3分

刀匠を父に持つ俳人詩人 「文学青年崩れ」を後押し

俳人の故永田耕衣さんの句を彫った板画「物質佛」(1998年)
俳人の故永田耕衣さんの句を彫った板画「物質佛」(1998年)

 「宮入聖」という名前を聞いて分かる人は、かなりの俳句愛好家だと思います。埴科郡坂城町出身の刀匠で人間国宝の故宮入行平さんの長男です。刀匠の跡を継いだのは次男の恵さん(宮入小左衛門行平)です。


 聖さんは1983(昭和58)年、友人と出版社「冬青社」を立ち上げ、「季刊俳句」の発行を始めました。その創刊号で、おやじの葬儀の様子を詠んだ僕の俳句を版画に彫ってまとめた句集「赫土抄」を取り上げてくれました。


 聖さんとの出会いは、75年に更埴市(現千曲市)に帰郷して屋代駅前の喫茶店で展示した僕の版画を見て声をかけてくれたのがきっかけでした。


 そこで「昔こんな版画を彫った」と、赫土抄を見せました。その後も何度か「季刊俳句」で僕の俳句を紹介してくれ、ほかの俳句誌に聖さんの推薦で僕の俳句が載ったこともあります。僕の俳句を多少なりとも認めてくれていたのでしょうか。


 週刊誌の「サンデー毎日」に歌人の塚本邦雄さんが選評を担当する「サンデー秀句館」という俳句投稿欄があって、聖さんはたびたび取り上げられました。俳人高柳重信さんが編集長を務めた「俳句研究」で入賞したこともあり、聖さんは戦後句界の新星ともいわれました。


 刀匠が亡くなった後、刀匠制作の刀の販売を依頼してきた人とトラブルになったことがありました。聖さんのプライドは傷つき、つらい思いをしたことでしょうが、塚本さんは聖さんの第一句集「聖母帖」刊行に際し、「妖刀村正に試される金剛石」の句として高く評価しました。


 聖さんが著した俳人の飯田蛇笏・飯田龍太親子に関する研究書や句集「聖母帖」を読むと、聖さんは俳人としてだけでなく、すごい知識と見識のある詩人でもあると思います。


 僕は中高生の頃から詩を書き、社会に出て結婚し、子どもが生まれてからも「文学青年崩れ」で俳句や板画をやってきました。


 「文学青年崩れ」もたいていは40代、50代まで続かないものでしょうが、文学や美術の夢を諦めずにやってこられたのは、聖さんと出会えたのが大きかった。それが良かったのか、悪かったのか…。不思議な気がしますよ。


 あと一つ、聖さんに感謝していることがあります。1984年に永田耕衣さんの句集「物質」が出た時、聖さんに「句集を彫りたい」と言ったんです。そうしたら聖さんが「こんな版画を彫っているやつが、永田さんの句を彫りたいと言っている」と、永田さんに僕の板画絵本「はなとり地蔵」を送ったのです。そして、永田さんのお許しをもらえました。「少し甘いところがあるけれど、いいでしょう」と。


 以前、僕が鎌倉にいた頃に棟方志功が彫った永田さんの句集に出合い、「赫土抄」を彫ることにつながりました。僕は永田さんの句集は何十冊と持っています。ちょっととぼけた句です。


 僕は永田さんの句を、十六羅漢の板画に彫り進め、残り8枚となりました。完成したらぜひ東京や大阪で展覧会を開こうと考えています。


 2010年代、姨捨で俳句大会を開くことになり、講演でも選者でも何かやってくれないかと手紙を出したのが聖さんとの最後のやりとりです。「体調が悪い」とのことで、返信には「我は昔の我ならず」と題した冊子のようなものが入っていました。聖さんももう80歳近く。今も俳句は続けていると思います。


(聞き書き・吉村英樹)



2026年5月23日号掲載

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