19 信州白樺派教育
- 7月18日
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人を育てることに協力 教育の精神受け継がれて

民芸の関係で大変お世話になった小林多津衛先生はまさに白樺派教育の実践者でした。白樺派教育は、武者小路実篤や志賀直哉らが1910(明治43)年に創刊した文芸誌「白樺」の影響を受けた教師らが実践した人道主義的な教育のことで、長野県内には大正時代、東京に次ぐ数の白樺購読者がいたともされ、「信州白樺派」の教育運動が活発化します。
僕が生まれるはるか前のことですが、小学校3、4年の頃受けた「作文教育」は白樺派教育に近いものを感じます。
千曲市の稲荷山、戸倉地区は白樺派教育が盛んなところでした。稲荷山は笠井三郎、戸倉は赤羽王郎(おうろう)(本名一雄)が知られています。白樺派教育に傾倒した若い先生らは社会主義的な考え方と重ねて見られ、先生たちの弾圧につながっていきます。県会で「白樺派教育はだめだ」といった主張をしたのが、稲荷山出身で県会議員や衆院議員、稲荷山町長などを務めた山本慎平です。
山本はむしろ開明的な人だったと思います。しかし、稲荷山の小学校で笠井に学んだ山本の長女えいが、長野市の小学校に転勤になった笠井に連れていかれ、ほかの児童と共に下宿生活を始めたことがあって、弾圧へと向かったのでしょう。赤羽も、戸倉小学校で学校備品の図書売却を巡り、県会で山本らの追及を受け、退職処分となります(戸倉事件)。
小林多津衛先生は白樺派教師として僕らに接してくれました。1984(昭和59)年に僕らがつくった「民芸を考える三人の会」の「手づくり展」には、最初から小林先生が所有していた陶芸の大作などを貸してくれました。
小林先生は2001年、104歳で亡くなりましたが、その2年前まで、千曲市森のアンズの花見に来ては、僕の板画館で民芸のことと平和のことを1年置きに話をしてくれました。人を育てるという点では、本当の教育者だと思います。
小林先生と僕をつないでくれたのは、中学校教諭を務め、03年に83歳で亡くなった長谷川健さん(松代町)です。健さんは僕の屋代東高校の大先輩(当時は旧制屋代中学)で、松代小学校で小林先生に学びました。白樺派教育はだいぶ下火になっていた頃です。余談ですが、松代小時代に小林先生は和田(英)(えい)の「富岡日記」を発見し、世に知られるきっかけをつくりました。
健さんの父は、瓶詰めのエノキタケ人工栽培を考案した長谷川五作です。五作の喜寿を祝う同窓会が戸倉上山田温泉で開かれた時、当時屋代東高校図書委員長だった僕は新聞部部長と2人で受付をしました。
私たちは受付で、屋代東高校生徒の万引きに関するアンケートをまとめた新聞を配りました。同窓会の後、健さんに言われましてね。「こんなものを配ったら、屋代東の先輩の会社に生徒が就職できなくなるぞ」と。
それから20年ほど過ぎた1982年に、望月町(現佐久市)で開かれた「日本民芸夏期学校」で健さんと会いました。その頃は「多少、顔なじみ」という関係でしたが、屋代駅前のピザ店「ラ・フォレ」の茶室で「三人の会」の立ち上げの会を開いた時は、松代焼などの作品も持ってきてくれました。
健さんの人柄、考え方を通して感じたのは、「人が人を育てていくことに協力する」という白樺派教育の精神が小林先生から教え子の健さんに受け継がれているということでした。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年7月18日号掲載



