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20 大島博光さん

  • 10 分前
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面識ないが詩作通じて接点 詩作は安らぎであり遊び

大島博光さんが亡くなり、大島博光記念館に集まった長野詩人会議関係者ら。左が私。隣は大島さんの詩友、故小熊忠二さん=2006年3月
大島博光さんが亡くなり、大島博光記念館に集まった長野詩人会議関係者ら。左が私。隣は大島さんの詩友、故小熊忠二さん=2006年3月

 長野市松代町出身の詩人で仏文学者、翻訳者の大島博光(はっこう)さん(1910〜2006年)とは面識はありません。旧制屋代中学校の1期生で、屋代高校の僕の先輩に当たり、詩作を通して結びつきがあるので今回ふれさせてください。


 初めて大島さんのことを知ったのは、屋代東高校(当時)の図書館にあった、仏の詩人ルイ・アラゴン著「フランスの起床ラッパ」の翻訳者としてです。A5判程度の謄写版刷りのような、薄い本でした。大島さんが寄付した本だったかもしれません。その頃の僕には、先輩という認識はありませんでした。


 大島さんを初めて先輩として認識したのは、1975(昭和50)年ごろ、鎌倉から更埴市(現千曲市)粟佐に移り住んでからです。信州大教育学部で美術を教えていた名誉教授の石川泰男さんが近所にいて、「貘郎さんは詩が好きなのか。大島博光というのが、俺と屋代中の同期生だよ」と言い、「その人なら、高校の図書館にあった本で知ってます」となりました。


 大島さんと元高校教諭の板倉弘実さん(長野市)が90年に発会したのが長野詩人会議で、詩誌「狼煙」を発行していました。板倉さんは、市民団体「松代大本営の保存をすすめる会」の中心的メンバーです。韓国・済州島と市民交流を進め、朝鮮人労働者の故崔小岩(チェ・ソアム)さんのことを調べてまとめた「イッチョルリはるか」という詩集を94年に出版し、僕は頼まれて挿絵や表紙などを彫りました。


 「狼煙」の表紙は、元千曲市議の故田沢佑一さんに頼まれて2号から彫り始め、大島さんが2006年に亡くなって追悼号の編集を手伝い、59号あたりで作るのはやめました。田沢さんの奥さんのお姉さんが詩人会議の実務などを担当していました。田沢さんとは「更埴郷土を知る会」や森将軍塚古墳の保存などで一緒に活動していました。もともと僕も詩が好きでしたから「詩人会議の会員にはならないし原稿料もいらないけど、毎号2ページぐらい詩を載せてほしい」と頼んで付き合ってきました。


 大島さんと板倉さんがやり取りした手紙が何十通も残されています。詩人会議の設立に至った経緯が分かりますが、大島さんの働きかけがとても強かったようです。


 大島さんは戦後すぐに日本共産党に入党します。アラゴンやチリの詩人パブロ・ネルーダなど、いわゆる各国のレジスタンス文学を翻訳してきたのですが、国家権力に対抗するには1人では闘えない。連帯する「仲間」が必要だと考えたと思います。

 板倉さんの松代地下壕や朝鮮人労働者の調査なども、自身の戦争体験が根底にあると思います。叙情詩というよりは、時局や政治的課題を追究するような2人の作品に共通するのは、詩を通しての国家権力や暴力に対する抵抗だったのではないかと思います。


 詩を書くということは僕にとって安らぎであり、遊びです。しかし、その中には国家だろうが家族だろうが、入らせない—という意識はありました。


 昔、板倉さんに「先生の詩は詩ではない」と言ったこともありました。でも、板倉さんは僕の詩に対しては何も言わなかった。詩に対する考えは自分と同じではないが、自分なりの詩を作っている人だと僕を見ているのではないかと思っています。


(聞き書き・吉村英樹)



2026年7月25日掲載

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