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20 大島博光さん
面識ないが詩作通じて接点 詩作は安らぎであり遊び 大島博光さんが亡くなり、大島博光記念館に集まった長野詩人会議関係者ら。左が私。隣は大島さんの詩友、故小熊忠二さん=2006年3月 長野市松代町出身の詩人で仏文学者、翻訳者の大島博光(はっこう)さん(1910〜2006年)とは面識はありません。旧制屋代中学校の1期生で、屋代高校の僕の先輩に当たり、詩作を通して結びつきがあるので今回ふれさせてください。 初めて大島さんのことを知ったのは、屋代東高校(当時)の図書館にあった、仏の詩人ルイ・アラゴン著「フランスの起床ラッパ」の翻訳者としてです。A5判程度の謄写版刷りのような、薄い本でした。大島さんが寄付した本だったかもしれません。その頃の僕には、先輩という認識はありませんでした。 大島さんを初めて先輩として認識したのは、1975(昭和50)年ごろ、鎌倉から更埴市(現千曲市)粟佐に移り住んでからです。信州大教育学部で美術を教えていた名誉教授の石川泰男さんが近所にいて、「貘郎さんは詩が好きなのか。大島博光というのが、俺と屋代中の同期生だよ」と言い、「その


19 信州白樺派教育
人を育てることに協力 教育の精神受け継がれて 小林多津衛先生(中央奥)を囲んで森のアンズの花見会(後列右が長谷川健さん)=1998年ごろ 民芸の関係で大変お世話になった小林多津衛先生はまさに白樺派教育の実践者でした。白樺派教育は、武者小路実篤や志賀直哉らが1910(明治43)年に創刊した文芸誌「白樺」の影響を受けた教師らが実践した人道主義的な教育のことで、長野県内には大正時代、東京に次ぐ数の白樺購読者がいたともされ、「信州白樺派」の教育運動が活発化します。 僕が生まれるはるか前のことですが、小学校3、4年の頃受けた「作文教育」は白樺派教育に近いものを感じます。 千曲市の稲荷山、戸倉地区は白樺派教育が盛んなところでした。稲荷山は笠井三郎、戸倉は赤羽王郎(おうろう)(本名一雄)が知られています。白樺派教育に傾倒した若い先生らは社会主義的な考え方と重ねて見られ、先生たちの弾圧につながっていきます。県会で「白樺派教育はだめだ」といった主張をしたのが、稲荷山出身で県会議員や衆院議員、稲荷山町長などを務めた山本慎平です。 山本はむしろ開明的な人だった


18 千曲市民100年の会
大逆事件とは何だったのか 新村兄弟 正しく理解を 発足した頃の千曲市民100年の会のメンバー。前列右から3人目が私 1910(明治43)年から11年にかけて、爆弾による明治天皇暗殺を企てたとする容疑で幸徳秋水ら多数の社会主義者らが逮捕、処刑された「大逆事件」。宮下太吉が旧中川手村(現安曇野市)で爆弾の実験をして、逮捕されたのが事件の端緒とされ、屋代町(現千曲市)出身の新村忠雄は処刑され、兄の善兵衛も懲役8年の刑を受けました。来年、千曲市と安曇野市で「大逆事件サミット」を開く計画があり、私もその準備を進めています。 新村忠雄は1903年、16歳の時に牧師をしていた父親の弟を頼って上京し、キリスト教の洗礼を受けます。しかし、宗教への限界を感じた忠雄は秋水らが作った「平民新聞」に出合い、秋水の一番弟子のようになっていきます。 忠雄は、文学青年的なところもあって雑誌「高原文学」を発行し、平民社の社会主義活動や思想を広げていこうとします。当時、平民新聞は発行されるとすぐに発禁になっていたので、文学雑誌の体裁をとったのですが、高原文学も結局5号で発行停


17 千曲アート協会
千曲市に美術館を造ろう 5年ほど活動したが解散 美術館開設を目指して千曲アート協会が作ったパンフレット 終戦直後の1946(昭和21)年、屋代町(現千曲市)で「白炎社展」という美術展が開かれました。戦後の県内で最も早い芸術文化運動の一つと言えるでしょう。画期的なことだと思います。 白炎社は、東京から山ノ内町に疎開していた和歌山県出身の日本画家野長瀬晩花(1889〜1964年)を中心に郷土の画家らで発足しました。屋代町とのゆかりというと、同町出身で衆院議員も務めた唐木田藤五郎(1897〜1968年)の妻志摩子が入っていた短歌の会に晩花もいたことです。藤五郎や倉科村(現千曲市)出身の日本画家倉島丹浪(1899〜1992年)とも知り合いでした。 白炎社の立ち上げには、屋代町出身の日本画家栗原御風(1915〜86年)も大きな力となりました。白炎社展は10年間に14回開かれて幕を閉じました。 白炎社の精神を引き継いで72年に御風が始めたのが「更埴綜美展」です。僕はまだ東京にいました。 僕が更埴市(現千曲市)に移り住んでしばらくして、近所に住んでい


16 種田山頭火
依頼受け展覧会用に冊子 生命力の象徴女性を描く 稲垣恒夫さんが、佐久市の鼻顔稲荷神社(はなづらいなりじんじゃ)に山頭火の句碑を建てた時に撮った写真。左から稲垣さん、御代田町の「浅間縄文ミュージアム」の堤隆元館長、そして私 托鉢しながら全国を放浪した自由律俳句の俳人種田山頭火(1882〜1940年)は、もともと特に好きでもありませんでした。 屋代東高校(現屋代高校)の同級生で、長野市にあった丸光デパートで美術担当をしていた友達を通じて、伊那で開催計画のある「井月と山頭火展」のために板画を彫ってほしいという依頼が飛び込んできたことがありました。1991年ですから、35年前のことです。 当時僕は山頭火について佐久に来たことがある俳人といった程度の認識しかなく、「これはちょっと勉強しなければいけないな」と思ったわけです。 山頭火が1936(昭和11)年、善光寺を訪れた際に自宅に泊めたという長野市の自由律俳句の俳人風間北光(本名・正雄)さんが存命で、風間さんから話を聞くなどして20句ほどを板画に彫りました。 それから4年後の95年、愛知県刈谷市の


15 松尾あつゆき
「原爆句抄」はすごい句 板画の句集出したい 松尾あつゆきの句集「ケロイド」に向けて試しに彫ってみた2句 信濃毎日新聞で2年ほど前に終わった連載「いまぞ熾(さか)りつ」は、長崎で被爆した自由律俳句の俳人松尾あつゆきの足跡を追い、信州での活動も詳しく描いています。 あつゆきは1945(昭和20)年8月9日、長崎に投下された原爆により、妻と3人の子を亡くしました。「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」は家族の死を詠んだ代表的な句です。当時15歳の長女も被爆しましたがその後回復。49年10月、あつゆきは僕の母校である屋代東高校(現屋代高校)の英語教員となって赴任します。 信州に来たのは、丸子町(現上田市)出身の芹沢とみ子さんと再婚したからです。とみ子さんも戦争で夫を失い再婚でした。ちょっと脱線しますが、とみ子さんは芹沢家3姉妹の末っ子で、長女の寿子さんは自由律俳人の荻原井泉水と、次女ツガルさんは陶芸家で自由律俳人の内島北朗と結婚しています。 51年春には松代高校の教頭として転出します。屋代東高には1年半しかいませんでしたが、生徒にはとても人気


14 「杏の里のわらべ唄」
12の唄を板画付き絵本に 周辺の村々登場する唄も 2009年に再版された「杏の里のわらべ唄」(左)と、15年に出版された「創作民話杏姫ものがたり」の表紙 1981(昭和56)年ごろ、中村やすのさんというわらべ唄をよく知っている近所のおばあさんの家に妻がテープレコーダーを持って行ってわらべ唄を録音しました。大学で方言や民俗学の調査をしたことのある妻はまだわらべ唄を歌える人がいるうちに記録しておこうとしたのでしょう。 それをまとめて、91年「杏の里のわらべ唄」という絵本を300冊だったか500冊だったか作り、僕が板画を彫りました。2009年に再版を出しました。12のわらべ唄を春から順に並べました。僕は地元に伝わるわらべ唄を知っている方だと思いますが、中には聞いたことのない唄もありました。 「もぐらホイ」という唄は「この木なる木かならね木か ならねとこんな木切っちゃうぞ」という詞です。家の周りのアンズや柿、梅、栗の木などを囲んで、1人がまさかりで木の幹をちょっと切り付け、「なる木かならね木か」と問いかけると、もう1人が「なりますなります」と答え、


13 民芸運動と手づくり展
小林多津衛先生と出会い 民芸に対する姿勢に感化 千曲市のあんずの里に花見に訪れた小林多津衛さん(中央)を囲む民芸を考える会のメンバーたち。後列左が私 民芸運動は、日常使われる器や道具に美や価値を見いだす運動のことです。工業化と大量生産が進んだ時代を背景に1925(大正14)年、思想家で白樺派の柳宗悦らによって提唱されました。板画家棟方志功もこの運動に加わっていました。 僕が民芸に初めて出合ったのは、東京・渋谷の新聞店にいた頃。店のすぐ裏に「べにや民芸店」という店が新しくできたというのでのぞきに行きました。社長は奥村正さんといい、日本画家奥村土牛の息子さん。並べてあったのは、わらで作ったものや、竹で編んだようなもの、作業着など「田舎のうちの物置みたい」で全然興味は湧きませんでした。 その10年後ぐらい、小諸市の懐古園近くに「べにや小諸店」ができました。土牛が南佐久郡八千穂村(現佐久穂町)に疎開していたことも開店に関係があるのでしょうか。ここで奥村さんと再会し、東京の店のことを話すと、「森さんとは一生の付き合いになりそうだなあ」と言って喜んでく


12 一茶暦
季節に合った句と板画で 44年続け制作の大きな柱 今年の一茶暦5、6月(左)と、一茶暦を包んだ(畳)(たとう)紙 俳人小林一茶の句と板画の挿絵で構成した「一茶暦」は1982年版から作り続けて44年たちます。染色工芸家で人間国宝の故・芹沢銈介さんは亡くなるまで38年間「芹沢カレンダー」を作りました。それを上回る「一茶暦」はギネス記録ものでしょうか。芹沢さんには弟子がいましたが僕は1人作業。といっても、日曜日の日付を赤く色付けするのは息子に手伝わせましたけど。 「郷土の本・さらしなはにしな」の執筆陣でお世話になっていた森嶋稔さん(元県考古学会長)や矢羽勝幸さん(一茶研究家)、福沢武一さん(方言研究家)らに〝お歳暮〟のつもりで作ったのがきっかけです。1カ月ごとに1枚ずつの計12枚の暦で、一茶の句とそれに関係する挿絵を板画で彫りました。1月は「犬の子やかくれんぼする門の松」という句に、門松に姿を隠しているような白い犬の板画を添えました。 刷るのは結構大変な作業です。83年版からは2カ月ごと6枚の暦にして確か1部3000円で販売しました。森嶋さんや屋


11 宮入聖さん
刀匠を父に持つ俳人詩人 「文学青年崩れ」を後押し 俳人の故永田耕衣さんの句を彫った板画「物質佛」(1998年) 「宮入聖」という名前を聞いて分かる人は、かなりの俳句愛好家だと思います。埴科郡坂城町出身の刀匠で人間国宝の故宮入行平さんの長男です。刀匠の跡を継いだのは次男の恵さん(宮入小左衛門行平)です。 聖さんは1983(昭和58)年、友人と出版社「冬青社」を立ち上げ、「季刊俳句」の発行を始めました。その創刊号で、おやじの葬儀の様子を詠んだ僕の俳句を版画に彫ってまとめた句集「赫土抄」を取り上げてくれました。 聖さんとの出会いは、75年に更埴市(現千曲市)に帰郷して屋代駅前の喫茶店で展示した僕の版画を見て声をかけてくれたのがきっかけでした。 そこで「昔こんな版画を彫った」と、赫土抄を見せました。その後も何度か「季刊俳句」で僕の俳句を紹介してくれ、ほかの俳句誌に聖さんの推薦で僕の俳句が載ったこともあります。僕の俳句を多少なりとも認めてくれていたのでしょうか。 週刊誌の「サンデー毎日」に歌人の塚本邦雄さんが選評を担当する「サンデー秀句館」という


10 更埴郷土を知る会
荒れた森将軍塚古墳見て 保存に向け整備計画提案 森将軍塚古墳などの整備で汗を流し、昼食の弁当を食べる「更埴郷土を知る会」のメンバー=1983年 千曲市の小高い山の上にある森将軍塚古墳は「科野のクニ」を治めていた豪族の墓とされ、4世紀後半の築造といいます。同市屋代から森、雨宮辺りは、一重山が千曲川の氾濫を防ぐ役目をして洪水被害が少なく、安定的に食料を収穫できる豊かな「クニ」だったんでしょうね 昭和30年後半から40年代、東京から帰省した時は戸倉駅から森まで、戸倉の友達に車で送ってもらっていましたが、ある時、森将軍塚古墳のある山の尾根筋部分が削られているのを見つけました。 「おい、これはどうしたんだ」と友達に聞くと「将軍塚がよく分かるように削っているんだよ」というような返事でした。実際は土木工事用の土砂採掘の跡でした。「こんなことをしていたら古墳がだめになってしまうのでは」と考えるようになりました。 1975(昭和50)年、倒れた母の看病のため実家に戻り、郷土誌「さらしなはにしな」を創刊した話は前回しました。そのメンバーと更級郡誌、埴科郡誌(


09 雨宮の御神事
3年に1度の「信濃の奇祭」 詩画集発行 踊りを板画に 雨宮の御神事について作った「土霊」(左)と「雨の宮のごじんじ」 4月29日、千曲市雨宮の雨宮(あめのみや)坐(にいます)日吉神社で「雨宮の御神事(ごじんじ)」(国重要無形民俗文化財)が開かれました。3年に1度開かれる祭りです。起源はよく分かっていませんが、おそらく500年を超える伝統があり「信濃の奇祭」といわれてきました。 御神事の踊りは、真ん中に天狗の面を着けた御行司、4カ所に獅子、その間に地元の神々やお稚児、一番尻に唄歌いや太鼓—と、総勢120人ぐらい参加し、大きな祭りでした。 昔は雨宮だけでなく、僕の家のある森村でも御神事が開かれていました。明治以前はもっと多かったそうです。しかし、明治政府による神社合祀で一村一社となり、御神事が毎年開かれなくなり、廃れていきました。 そうした苦難の時代に、旧更埴市議や千曲市議を務めた故田沢佑一さんのおじいさんが御神事や雨宮のお宮などについてまとめた本を出すなどの尽力もあり、雨宮の御神事は続いています。 一村一社になって、森の御神事をやろうとし


08 郷土誌を創刊
地域の歴史もっと関心を 表紙や挿絵など版画彫る 1976年に創刊した「郷土の本・さらしなはにしな」 東京と鎌倉には通算12年いました。1975(昭和50)年1月、母親が雪道で滑って転んで頭を打ったと知らせが入り、急きょ更埴市(現千曲市)に戻ってきました。その頃、兄夫婦が離婚して、小学生の長女と保育園児の次女を兄と母で面倒を見ていました。70歳を過ぎて、炊事や洗濯などの家事で母も精神的に参っていたと思います。僕はろくな看病もできず、母は翌年亡くなりました。 その頃、高校の同級生で、大学卒業後東京で就職した柳沢純さん(屋代西沢書店社長)も更埴市に戻ってきて、一緒にミニコミ誌「郷土の本・さらしなはにしな」を創刊しました。一般の市民にも自分たちの地域の歴史に関心を持ってもらおうと始めたのです。 僕たちが調べて書くだけではいけないと、3人のレギュラー執筆者をお願いしました。当時上山田温泉に住んでいた森嶋稔さん(考古学研究者)、矢羽勝幸さん(一茶研究家)、福沢武一さん(方言研究家)です。中学生でも分かるような内容にし、文字だけだと読んでもらえないと、僕


07 鎌倉暮らし
ムンクの版画に衝撃受け 油絵にも負けない表現力 初めて作った句集「赫土抄」 代々木の新聞販売店で一緒にバイトをしていた友達が大学卒業後に入った出版社を辞めて業界新聞社に転職し、僕もその会社に誘われました。社長面接にジャンパーとジーンズ姿で行ったら「それじゃ仕事にならない」と、百貨店で背広を買ってくれました。初めての背広で今も大事に取ってあります。 この業界新聞社には2年ほどいました。主に集金の担当でしたが、企業の取材をすることもありました。業界のある企業が問題を起こしたことを知り、取材を始めたところ、副社長から呼び出され「お前はこの話から手を引け」と言われたんです。業界紙とはこのようなものかと、会社を辞める決心をしました。あまり向いていないなと。 僕は友達の寮に転がり込みました。その友達は趣味で油絵を描いていたことから、僕も油絵を描くようになりました。辞めた業界紙の社長は画廊も経営している人で、僕が油絵を描いていることを聞いて僕を呼び出し「あんた、絵を描くのか。なら、静物と人物と風景を描いてこい」と言いました。僕は画材屋でボードを3枚と絵の


06 新聞販売店勤務
大学進学目指して上京も 予備校は1カ月でやめる 上京して、新聞販売店などでのアルバイトをしていた20代半ばごろ 屋代東高校(現屋代高校)を1年余計に通い、自称「文学青年崩れ」の僕は早稲田大学の文学部を受験しました。 歴史か国語で大隈重信に関する設問が出ました。それを見て嫌になっちゃってね。大学とすれば創立者のことは知っておいてほしいという気持ちだったのでしょうか。僕は宣伝みたいに思えてその問題に答えはあえて書きませんでした。そのためか分かりませんが不合格でした。 高校の記念行事に招かれた哲学者の務台理作先生が「大学は一生の友達をつくりに行くところだ」と話されたことが印象に残り、大学進学を目指していた僕は、東京の予備校に通う選択をしました。 家からの仕送りなど当てにできないので新聞販売店に勤めました。当時、新聞配達をしながら大学や夜学に通う学生が多くいました。 新聞配達をして2カ月ぐらいしてからは集金も担当しました。僕の主任だった人は、集金途中の僕たち配達員を喫茶店に呼び出して、「俺が預かるから」と言って集金したお金の一部を徴収するんです


05 落第を経験
校長先生から通告される 図書館長の配慮で助かる 屋代東高校の図書館の前で 屋代東高校(現屋代高校)で僕は図書委員になりました。図書館は新築したばかりで校舎と別棟にあり、鉄筋コンクリート造りの洋風でしゃれた外観でした。図書館を校舎と別棟に建てたのは長野県内で初めてとのことで、長野や上田、伊那などの高校から先生が視察に来ていましたね。「蔵書1万冊」がうたい文句でしたが、実際にはそこまではなかったように思います。 図書館での思い出といえば、自衛隊が入隊勧誘のため、自衛隊の活動を紹介した映画を図書館で上映したことがありました。生徒の入隊を前向きに考える先生もいれば反対の先生もいました。一番の反対派の国語の先生が映写機のコンセントを抜くなど〝妨害工作〟をしたものですから、図書館が騒然となりました。 僕はその時、社会科研究室で遊んでいたのですが、友達が「大変なことになっている」と呼びに来たんです。図書館では、前の方では映画を見ようとしている生徒がいて、後ろに校長先生をはじめ何人もの先生が取り囲んでいました。 映画は「災害時などに国民の生命を守るのが自


04 杏の里板画館
築200年「千本松の家」「つくる会」で購入資金募る 千本松(手前)と杏の里版画館(奥の建物) 本来であれば、高校時代の話をするところですが、僕が主宰する千曲市森の「杏の里板画館」が冬季休館を終えて営業を始める4月1日が近づいているので、今回は板画館のことを紹介させてください。あんずまつりも5日まで開かれています。 板画館は築約200年にもなる古民家で、地元では「千本松の家」と呼ばれてきました。江戸時代から大正末期まで4代続いた漢方医の屋敷で、終戦後は引き揚げ者家族が5組も住んでいたほどの広い建物です。2階の上部に上座敷があって、屋根裏部屋もある5層構造のような造りです。 この家のシンボルツリーである千本松は1976(昭和51)年、更埴市(現千曲市)の保存樹木に指定されました。幕末には佐久間象山が何度もこの家を訪れたといい、千本松は「象山駒つなぎの松」とも呼ばれています。アカマツの変種の「(多)(た)(行)(ぎょう)(松)(しょう)」で、根元から枝分かれして見事でしたが、86(同61)年、僕がここに越してきて間もなく、春先に降った大雪の重みで


03 屋代中学時代
理科の設問で先生に文句 かわいがってくれた先生も 中学の修学旅行で。前から2列目の左端が私 僕の通った屋代中学校は、旧屋代町や旧森村などでつくる組合立の中学校でした。できたばかりの学校で1年生から通ったのは僕の学年から。一学年250人ぐらいいました。 近所の2歳上の「にっちゃん」と森街道を歩いて通いました。にっちゃんは靴、僕は下駄。しかもにっちゃんはバスケをやっていて歩くのが速い。走るようにして始業時間ぎりぎりに校門を通過していました。ちゃんとした図書室があって、しょっちゅう行ってました。図書室の先生にもかわいがられました。 2年生の理科の時間、テストで「メンデルの法則」についての問題が出ました。その設問が、問題集で見覚えのある文章だったのですが、少し違う表現になっていました。先生が、問題集と全く同じではいけないと思って変えたのでしょう。しかし、よく読むと問題集とは違う解答になってしまうんです。熟考の末、問題集とは違う解答を書きました。 そうしたら職員室に呼ばれて「間違えたのは学年で2人だけだ」と怒られたのです。でもこっちにも言い分がある


02 両親のこと
ひょうきん者のおやじ 幼少期に苦労 耳学問の母 3歳のころ、父と兄、姉と 僕は現在の千曲市森の岡地(おかじ)という、35軒くらいの小さな村で生まれ、育ちました。僕の家は村の中でも最も貧乏でした。小学校入学前の友達は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者や疎開者の子どもたちで、山の方まで行って食べ物を探す「どろぼーごっこ」をして遊んでいました。 森地区は今でこそ「一目十万本」の「あんずの里」として知られていますが、当時は家の周りに自家消費するアンズの木がある程度で、アンズ畑というものはありませんでした。アンズの種を漢方薬用に売って、実を干したり煮詰めたりして食べていました。戦後、農協がアンズのジャムを作る工場を造り、アンズ栽培が盛んになりました。 ひいおじいさんか、おじいさんが馬を育て主に新潟県の高田の軍隊に納める仕事をしていたと母から聞いていました。つまり「博労(馬喰=ばくろう)」です。僕の貘郎はそこから来ています。 日清戦争の頃は木曽馬のような小型の馬でも良かったのが、日露戦争になると兵隊が乗るのは大型の馬でなければいけないとなり、博労


01 棟方志功に引かれて
板画の作品と思想に学び 「杏の里板画館」開き31年 「杏の里板画館」隣の「板遊舎」で 版画を彫り始めて51年、生まれ育った千曲市森に「杏の里板画(ばんが)館」を開館して31年になります。まったくの我流で、専門的に絵を学んだこともありません。あれもやり、これもやりの人生でした。 父は絵がうまい人でした。母校の小学校には長いこと父の絵が展示されていたと聞きました。姉が中学生の時にすごろくを作りたいといったら父が絵を描いてくれて、「ああ、親父うまいんだな」と子ども心に思ったことがあります。 僕も絵が好きでした。中学1、2年の時の先生がよく絵を見てくれました。絵を見てほしくて、「クロッキー帳」(速写画を描くための薄い紙を束ねたスケッチブック状のノート)を持って出かけてはいろいろ描きました。先生から油絵をやらないかと言われたことがありましたが、家が貧乏だから油絵具なんて買えません。水彩画は友達の水彩絵の具を使って描いていました。その代わり友達の絵を描いてあげていました。ランプの灯油と水彩絵の具で油絵みたいに描いてみたことがあります。ところが、石油臭く
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