13 民芸運動と手づくり展
- 6月6日
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小林多津衛先生と出会い 民芸に対する姿勢に感化

民芸運動は、日常使われる器や道具に美や価値を見いだす運動のことです。工業化と大量生産が進んだ時代を背景に1925(大正14)年、思想家で白樺派の柳宗悦らによって提唱されました。板画家棟方志功もこの運動に加わっていました。
僕が民芸に初めて出合ったのは、東京・渋谷の新聞店にいた頃。店のすぐ裏に「べにや民芸店」という店が新しくできたというのでのぞきに行きました。社長は奥村正さんといい、日本画家奥村土牛の息子さん。並べてあったのは、わらで作ったものや、竹で編んだようなもの、作業着など「田舎のうちの物置みたい」で全然興味は湧きませんでした。
その10年後ぐらい、小諸市の懐古園近くに「べにや小諸店」ができました。土牛が南佐久郡八千穂村(現佐久穂町)に疎開していたことも開店に関係があるのでしょうか。ここで奥村さんと再会し、東京の店のことを話すと、「森さんとは一生の付き合いになりそうだなあ」と言って喜んでくれました。おかげで奥村さんには小諸のほか、東京で何度も展覧会を開いてもらいました。
本格的に民芸に関わるようになったのは、82(昭和57)年7月、北佐久郡望月町(現佐久市)で「日本民芸夏期学校」が開かれた時です。民芸の研究家や民芸館の学芸員たちによる講演などを聞く勉強会で、望月の民芸研究家の故小林多津衛先生に出会うのです。また、屋代で裂き織りをしていた柳町(現姓小市)璋子さんとも知り合いました。柳町さんはその後に民芸協会理事を務め、民芸の世界では生き字引のような人として知られた人でした。
2年後、柳町さんと僕と、高校の同級生の陶芸家近藤しろうさんの3人で「民芸を考える三人の会」を立ち上げ、3人のほかに何人かと、後に「杏の里板画館」になる空き家で毎月勉強会を開いていました。アンズの花の季節に観光客がぞろぞろと近くの道を歩いて花を眺めているのを見て、「見物客相手に物を売れば、ほかの季節は寝て暮らせる」と考えて始まったのが「杏まつり手づくり展」(初回は「民芸展」)だったのです。
小林先生から借りた焼き物など民芸品を数点並べ、僕らの作品の販売などをしましたが、「そうは問屋が卸さない」です。思っていたほどもうかりはしませんでした。小林先生は最初の年から手づくり展に合わせて花見に来てくれるようになりました。
民芸については、いつも大先輩の小林先生を通じて考えています。「民芸とはこういうものだ」という押し付けではなく、いつも民芸について学んで理解を深めていくという姿勢です。小林先生は戦前、個性を尊重する教育を実践する「信州白樺派教師」でしたから。今も佐久市望月の多津衛民芸館で勉強会をよく開いています。
手づくり展は今年で42回目を迎えました。長野冬季五輪(98年)が決まって、板画館の前の道も広く整備され駐車場も各所にできて、「あんずの里」も変わってきました。僕は、昔ながらの車の入って来ないような裏道を歩いて花見をするのが好きです。
「花が咲きました。美しいです。見に来てください」といういわゆる〝観光〟ではなく、人それぞれが地域の中から良いものを見いだしていくことが大事なのではないかと思います。小林先生の姿勢から感じることです。
手づくり展の今後については、作品を作る3人とも80歳前後になり、開催もそろそろ限界かという話も出ています。とはいえ、やり残したこともいっぱいあります。どこまでできるか、来し方も行く末もまとめていかなければならないと思っています。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年6月6日号掲載



