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06 新聞販売店勤務

  • 4月11日
  • 読了時間: 3分

大学進学目指して上京も 予備校は1カ月でやめる

上京して、新聞販売店などでのアルバイトをしていた20代半ばごろ
上京して、新聞販売店などでのアルバイトをしていた20代半ばごろ

 屋代東高校(現屋代高校)を1年余計に通い、自称「文学青年崩れ」の僕は早稲田大学の文学部を受験しました。


 歴史か国語で大隈重信に関する設問が出ました。それを見て嫌になっちゃってね。大学とすれば創立者のことは知っておいてほしいという気持ちだったのでしょうか。僕は宣伝みたいに思えてその問題に答えはあえて書きませんでした。そのためか分かりませんが不合格でした。


 高校の記念行事に招かれた哲学者の務台理作先生が「大学は一生の友達をつくりに行くところだ」と話されたことが印象に残り、大学進学を目指していた僕は、東京の予備校に通う選択をしました。


 家からの仕送りなど当てにできないので新聞販売店に勤めました。当時、新聞配達をしながら大学や夜学に通う学生が多くいました。


 新聞配達をして2カ月ぐらいしてからは集金も担当しました。僕の主任だった人は、集金途中の僕たち配達員を喫茶店に呼び出して、「俺が預かるから」と言って集金したお金の一部を徴収するんです。要するに着服だったのですが、その頃の僕はそれがどういうことかよく分かっていませんでした。競馬とか競輪が好きな人でした。結局、警察に逮捕されてその主任は辞めました。


 僕もその会社に居づらくなり、人に誘われて川崎市の別の新聞社の販売店で働くことにしました。多摩川沿いの新丸子という地区で、大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)の練習グラウンドがありました。当時の三原修監督や秋山登投手など選手たちも近くに住んでいました。米国のケネディ大統領が暗殺されたニュースでは号外を1日に3回配ったことを覚えています。


 その後、また別の新聞販売店に転職しました。僕が入っていた代々木の寮は120人もの学生らがいるような大きい寮でしたが、その頃は大学生より年上の〝牢名主〟みたいな存在になっていました。「犬猫を拾ってきてはいけない」「休みたい日はずる休みせず事前に知らせること」など寮のルール定め、自治会もつくりました。


 国分寺の販売店の実質的な責任者を任されていた時、販売店が脱税の容疑をかけられ、税務署が店までやって来たことがありました。2人来た署員のうちの上の立場の人が屋代東高校の出身者だったのですが、もう1人の署員を通じて「こんな所にはいないほうがいい」と伝えてきました。それだけの理由ではありませんが、結局そこも辞めました。


 寮で開かれた送別会では、この会社の課長か部長の立場にある人が「柳澤君は(寮の中で)お母さんのような存在だった」と言ってくれました。社長にも「長い間ご苦労さまでした」と言われました。


 ところで、予備校はどうしたのか、大学受験はどうしたのか―というと…。予備校は教室がとても大きくてマイクの音も良くなかったので、先生の講義を聞くには授業の1時間前に登校して前の席に座らないといけなかった。それで予備校は1カ月ほどでやめました。


 大学進学は諦めましたが、あちこちの大学に入り込んで興味のある先生の講義を聞いたり、博物館や美術館通いをしたり、同人誌の編集をしたりしていました。同人誌の経験は、個展の時などにちょっとした冊子を作るのに役立っています。


(聞き書き・吉村英樹)


2026年4月11日号掲載

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