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10 更埴郷土を知る会

  • 5月16日
  • 読了時間: 3分

荒れた森将軍塚古墳見て 保存に向け整備計画提案

森将軍塚古墳などの整備で汗を流し、昼食の弁当を食べる「更埴郷土を知る会」のメンバー=1983年
森将軍塚古墳などの整備で汗を流し、昼食の弁当を食べる「更埴郷土を知る会」のメンバー=1983年

 千曲市の小高い山の上にある森将軍塚古墳は「科野のクニ」を治めていた豪族の墓とされ、4世紀後半の築造といいます。同市屋代から森、雨宮辺りは、一重山が千曲川の氾濫を防ぐ役目をして洪水被害が少なく、安定的に食料を収穫できる豊かな「クニ」だったんでしょうね


 昭和30年後半から40年代、東京から帰省した時は戸倉駅から森まで、戸倉の友達に車で送ってもらっていましたが、ある時、森将軍塚古墳のある山の尾根筋部分が削られているのを見つけました。


 「おい、これはどうしたんだ」と友達に聞くと「将軍塚がよく分かるように削っているんだよ」というような返事でした。実際は土木工事用の土砂採掘の跡でした。「こんなことをしていたら古墳がだめになってしまうのでは」と考えるようになりました。


 1975(昭和50)年、倒れた母の看病のため実家に戻り、郷土誌「さらしなはにしな」を創刊した話は前回しました。そのメンバーと更級郡誌、埴科郡誌(合わせて更埴両郡誌)を読んでみると、「そんな遺跡あるだかや」といった話になり、見て回ることになりました。


 遺跡などの荒れた現状を目の当たりにして、「何とかならないものか」と市教育委員会に要求するとともに、庚申(こうしん)塔などの石碑調査をしてまとめる活動をしていました。これが80年の「更埴郷土を知る会」発足につながっていきました。


 当初は15人程度でしたが、市外の参加者も含め100人を超えるまでに大きくなりました。4年目には、森将軍塚古墳と一重山一帯を整備する「科野風土記の丘」を提案し、セミナーもやりました。


 森将軍塚古墳の保全で大きな貢献をしたのは労働大臣などを務めた倉石忠雄さんです。倉石さんは稲荷山町(現千曲市)の出身で、おやじと家ぐるみの付き合いがありました。倉石さんの弟の英雄(てるお)さんから森将軍塚古墳の現状を見たいと言われ、僕たちが案内しました。そのことが倉石忠雄さんに伝わったのでしょうか。その後、市教育長が将軍塚保全の関係で文化庁に陳情に行ったところ、当時の長官は玄関まで迎えに出てきたそうです。それまでは陳情に行くたびに担当官が「お聞き置きしておきます」程度の対応だったとのことで、教育長もびっくりしていました。


 「更埴郷土を知る会」は会誌「ちょうま」を年1回発行していました。「ちょうま」とは、「ちくま」のもう一つの呼び方です。森嶋稔さん(元県考古学会長)などが執筆し、知る会メンバーが手分けして作っていました。


 「ちょうま」発行で思い出に残っているのは「屋代家文書」の特集です。屋代家は戦国時代に地元の領主だった家で、江戸時代の終わりには国文学者屋代弘賢を輩出しました。戦国大名の書状のほか、ものすごい数の蔵書がありました。屋代家の文書が静岡県で見つかって、屋代家の子孫である持ち主が更埴市に寄託することとなりました。僕たちは、市を来訪した屋代家の子孫の方たちの歓迎会を開いたり、一重山を案内したりしました。1986年ごろの話です。


 僕は10号ぐらいで「ちょうま」の編集から手を引きました。初めは皆さん真面目に郷土史の調査をして執筆していたのですが、だんだんと「おらが村自慢」になってきました。その後は、「ちょうま」を購入するだけの会員になりました。


(聞き書き・吉村英樹)



2026年5月16日号掲載

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