07 鎌倉暮らし
- 5 日前
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ムンクの版画に衝撃受け 油絵にも負けない表現力

代々木の新聞販売店で一緒にバイトをしていた友達が大学卒業後に入った出版社を辞めて業界新聞社に転職し、僕もその会社に誘われました。社長面接にジャンパーとジーンズ姿で行ったら「それじゃ仕事にならない」と、百貨店で背広を買ってくれました。初めての背広で今も大事に取ってあります。
この業界新聞社には2年ほどいました。主に集金の担当でしたが、企業の取材をすることもありました。業界のある企業が問題を起こしたことを知り、取材を始めたところ、副社長から呼び出され「お前はこの話から手を引け」と言われたんです。業界紙とはこのようなものかと、会社を辞める決心をしました。あまり向いていないなと。
僕は友達の寮に転がり込みました。その友達は趣味で油絵を描いていたことから、僕も油絵を描くようになりました。辞めた業界紙の社長は画廊も経営している人で、僕が油絵を描いていることを聞いて僕を呼び出し「あんた、絵を描くのか。なら、静物と人物と風景を描いてこい」と言いました。僕は画材屋でボードを3枚と絵の具を買って描いた絵を社長のところに持って行きました。僕の絵を見た社長は「君は人物(画)が良いね」と言い、交通費も含め確か2万円で僕の絵を買ってくれたんですよ。僕のような無名の者の油絵でも、入学や何かのお祝いに売れることがあるのだとか。その後モディリアーニ(イタリアの画家)のような女性画を描いて一度に数点見せたこともありましたが、買ってくれるのはいつも1点だけでした。
神奈川県鎌倉市の県立近代美術館に通い始め、ムンク(ノルウェーの画家)の版画に衝撃を受けたのはこの頃です。油絵も展示していましたが、版画には油絵にも負けないくらいの表現力があると感じました。もっとも、棟方志功が有名になる前で、版画は美術品としてはそれほど認知されていませんでした。
自分で版画を彫るようになったのは1973(昭和48)年、鎌倉に引っ越してからです。翌年、句集「赫土抄」を作りました。32歳の頃でした。24歳の時、父が亡くなって、兄が作った立派な棺おけで土葬をした時の様子を詠んだ俳句をまとめたものです。16部作り、知り合いなどに配りました。
俳句とか詩は高校生の頃から親しんでいました。土葬という生々しい営みを、俳句のかたちで残そうとしたのです。
鎌倉では、大仏さんの真後ろのような所にあったアパートで暮らしていました。僕は定職に就かず、実家や姉から米や缶詰を送ってもらうなどして食いつないでいました。アパートの大家さんの飼っていた秋田犬の散歩をすると、大家の奥さんがおかずを持ってきてくれたこともありました。
ある時、東京の知り合いが「金を貸してくれ」とやって来ました。貸すお金なんてありません。そこで「版画を売ってみようか」ということになり、仏像の版画を刷り、友達とお寺の前の道で版画を広げて売ってみました。1時間たっても全然売れませんでした。版画用紙を買った紙屋さんに戻って「全然売れなかった」と話していたら、「アメリカに行くのでお土産を買いたい」という商社マンらしい男性が店に現れました。紙屋さんは僕の版画を1万円で売ってくれました。それが初めて自分の版画が売れた経験です。
鎌倉には2年ほどいました。20年ほど前に東京に行ったついでに鎌倉にも立ち寄ってみましたが、当時の面影はほとんど残っていませんでした。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年4月18日号掲載



