02 両親のこと
- 3月14日
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ひょうきん者のおやじ 幼少期に苦労 耳学問の母

僕は現在の千曲市森の岡地(おかじ)という、35軒くらいの小さな村で生まれ、育ちました。僕の家は村の中でも最も貧乏でした。小学校入学前の友達は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者や疎開者の子どもたちで、山の方まで行って食べ物を探す「どろぼーごっこ」をして遊んでいました。
森地区は今でこそ「一目十万本」の「あんずの里」として知られていますが、当時は家の周りに自家消費するアンズの木がある程度で、アンズ畑というものはありませんでした。アンズの種を漢方薬用に売って、実を干したり煮詰めたりして食べていました。戦後、農協がアンズのジャムを作る工場を造り、アンズ栽培が盛んになりました。
ひいおじいさんか、おじいさんが馬を育て主に新潟県の高田の軍隊に納める仕事をしていたと母から聞いていました。つまり「博労(馬喰=ばくろう)」です。僕の貘郎はそこから来ています。
日清戦争の頃は木曽馬のような小型の馬でも良かったのが、日露戦争になると兵隊が乗るのは大型の馬でなければいけないとなり、博労の仕事が成り立たなくなったそうです。さらに高田の軍隊に納める馬を何匹も死なせてしまい、大きなショックを受けたおじいさんは50歳ぐらいで亡くなったといいます。
おやじはひょうきんな人で、三男の僕をかわいがってくれました。元は小作農でしたが、戦後の農地解放で田を買って自作になりました。自分の山も少し持っていて桑畑にしたり野菜を育てたりしていました。丁寧に育てていたためか野菜や菊など品評会で賞をもらっていました。菊を東京に出荷するため、自転車で屋代駅まで運ぶのを手伝ったことを覚えています。その帰りにアイスキャンディーを買ってもらって食べるのが楽しみでした。
母は5人きょうだいの4番目で、貧乏だったため小さい頃遠い親戚へ「子守り」に出されました。いわゆる「口減らし」です。夜は鍵のかかった土蔵で寝させられ、子どもが泣くと怒られ、2、3年で「もういやだ」と戻ってきました。その後、近所の製糸工場に掃除係として行くようになりました。働き者の母は糸取りも覚え、姉や妹と一緒に群馬の前橋や岡谷などの製糸工場で働くようになりました。
母は学校には行かせてもらえなかったため、基本は耳学問です。「冠着曇れば雨になる」というような言い伝えはよく知っていました。松代から戸倉辺りの人の親戚関係まで知っていて「あの家の娘はどこに嫁に行ったか」などと話していました。
僕は小学校時代、勉強はやればできるタイプでした。3年生の時の担任は理科の先生で、やたら学校の外に出て草花や木を教えてくれました。4年、5年の時は女性の先生で、作文教育と言って、詰め込み教育ではなく自分で考えて解決していこうという教育方針の下、毎日のように作文を書かされました。1学期が終わるとちょっとした文集になるほどの量になりました。僕は作文が好きでした。その先生は自分の給料から何十冊もの子ども向けの本や百科事典を購入し、「学級文庫」をつくってくれました。
卒業する時にはクラスでくじを引いてその本を分け合ったのですが、僕は百科事典をもらいました。その先生には、後に僕の妻を紹介してもらうなど生涯お世話になりました。
(聞き書き・吉村英樹)
※杏の里板画館は3月31日(火)まで冬季休館中。
2026年3月14日号掲載



