18 千曲市民100年の会
- 7月11日
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大逆事件とは何だったのか 新村兄弟 正しく理解を

1910(明治43)年から11年にかけて、爆弾による明治天皇暗殺を企てたとする容疑で幸徳秋水ら多数の社会主義者らが逮捕、処刑された「大逆事件」。宮下太吉が旧中川手村(現安曇野市)で爆弾の実験をして、逮捕されたのが事件の端緒とされ、屋代町(現千曲市)出身の新村忠雄は処刑され、兄の善兵衛も懲役8年の刑を受けました。来年、千曲市と安曇野市で「大逆事件サミット」を開く計画があり、私もその準備を進めています。
新村忠雄は1903年、16歳の時に牧師をしていた父親の弟を頼って上京し、キリスト教の洗礼を受けます。しかし、宗教への限界を感じた忠雄は秋水らが作った「平民新聞」に出合い、秋水の一番弟子のようになっていきます。
忠雄は、文学青年的なところもあって雑誌「高原文学」を発行し、平民社の社会主義活動や思想を広げていこうとします。当時、平民新聞は発行されるとすぐに発禁になっていたので、文学雑誌の体裁をとったのですが、高原文学も結局5号で発行停止となります。
大逆事件は社会主義者らの一掃を図った国家によるでっち上げだとされています。新村忠雄は宮下太吉の爆弾作りにどのように協力したのか、そもそも宮下が爆弾作りをしようとした目的、経過などはどうだったのか。裁判は非公開の異例のスピード裁判でした。証人もいませんし、証拠の閲覧も厳しく制限され、証拠はないに等しい。そして12人が処刑されました。
僕は、このような異例の経緯をたどった大逆事件を勉強して抱いた疑問、問題意識を追求し、明らかにしていかなくてはいけないという思いを強くしました。そこで2012年、大逆事件を考える「千曲市民100年の会」を立ち上げました。
事件から80年か90年といいますから1990年か2000年の節目の年に、県史編さん室が屋代地区で大逆事件に関するセミナーを開いたといいます。当時、新村家の家もありました。ところが、市の幹部はセミナーのことを市民に広く知らせることをあえてせず、結局セミナーに参加したのは市外や県外の人たちばかりで、地元住民は2人しかいなかったと人から聞きました。その頃は地元では新村忠雄は天皇を暗殺しようとした首謀者の一人という認識が強かったと思われます。
「千曲市民100年の会」では、彼が発行した「高原文学」の勉強会を重ねました。そして、サミットに向けてのテキストとするべく、5号で休刊した高原文学を引き継ぐかたちで新たに「高原文学5+1」として発行を始め、忠雄の獄中からの手紙や手記、行動年表を載せました。現在は「高原文学5+4」に相当する「図録 自由民権絵巻展」まで作りました。寄稿されたものを「100年の会」のみんなで編集しています。元祖「高原文学」と同じ発行回数の5号に相当する「5+5」までの発行を目指しています。
千曲市などで開くサミットは7回目になります。初回は2011年、秋水の生誕地である中村(高知県四万十市)で開催され、2〜3年ごとに、事件で処刑された人たちのゆかりの地で持ち回りで開かれてきました。6回目の前回は25年、大阪平民新聞を創刊するなどした森近運平の出身地、岡山県井原市でした。
今回のサミットは、別名「明科事件」とも呼ばれる、大逆事件の端緒となった宮下太吉の住んでいた安曇野市がメインとなる予定ですが、千曲市でも新村兄弟への正しい理解を広めていくきっかけになればいいと思います。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年7月11日号掲載



