17 千曲アート協会
- 7月4日
- 読了時間: 3分
千曲市に美術館を造ろう 5年ほど活動したが解散

終戦直後の1946(昭和21)年、屋代町(現千曲市)で「白炎社展」という美術展が開かれました。戦後の県内で最も早い芸術文化運動の一つと言えるでしょう。画期的なことだと思います。
白炎社は、東京から山ノ内町に疎開していた和歌山県出身の日本画家野長瀬晩花(1889〜1964年)を中心に郷土の画家らで発足しました。屋代町とのゆかりというと、同町出身で衆院議員も務めた唐木田藤五郎(1897〜1968年)の妻志摩子が入っていた短歌の会に晩花もいたことです。藤五郎や倉科村(現千曲市)出身の日本画家倉島丹浪(1899〜1992年)とも知り合いでした。
白炎社の立ち上げには、屋代町出身の日本画家栗原御風(1915〜86年)も大きな力となりました。白炎社展は10年間に14回開かれて幕を閉じました。
白炎社の精神を引き継いで72年に御風が始めたのが「更埴綜美展」です。僕はまだ東京にいました。
僕が更埴市(現千曲市)に移り住んでしばらくして、近所に住んでいた信大名誉教授の故石川泰男さんに「綜美展に作品を出してみないか」と言われ、第6回綜美展に出品しました。石川さんは信大教育学部(長野市)で美術教育に携わっていて、たぶん僕の友人の柳沢純さん(屋代西沢書店社長)が石川さんに僕の版画を見せたことが背景にあると思います。
当時、画廊などに僕の版画を持っていくと「これは県展に出してみれば」と言われたこともあり、その話を石川さんにすると、「あれ、県展に版画(部門)あったかな。とりあえず綜美展に出してみて」となり出品したのです。会場は旧更埴体育館で、始めた頃は体育館に寝泊まりして見張り番をしていたものです。僕も一生懸命取り組んだものですから、御風にはかわいがられました。「森さんがやるなら、綜美展続けていっていいよ」と言われたぐらいです。
綜美展は86年、御風が亡くなり続けられなくなり閉幕します。続けられるものなら続けたかったのですが、僕は日本板画院(東京)の仕事もするようになっていたので、引き継ぐことができませんでした。
それから20年余。千曲市に美術館を造ろうと、僕や市内在住の芸術家らで「千曲アート協会」を設立しました。陶芸家の市川宗さんを会長に、フラワーアーティストの柿崎順一さん、版画の若林文夫さん、絵画の越ちひろさんら約20人の会員が集まりました。市内の芸術家や、市出身の日本画家倉島重友さん(倉島丹浪の三男)らの作品を展示するなどで市民の芸術に対する関心を高めてもらおうという趣旨です。市内の小中学校に声をかけて美術作品を作ってもらう「千曲アートコンペ」も開き、多くの作品が集まりました。
5年ぐらい活動しましたが、美術館開設は実現せず解散しました。美術館に転用できそうな建物の目星を付け、市の担当者に話をしたのですが、「屋代に『アートまちかど』があるから必要ない」と言われ、相手にされませんでした。
これを機に活動は下火になっていきました。改めて思ったのですが、千曲市を活動の中心にしている作家はほとんどいません。「居住地は千曲市で活動の場は長野市」みたいに。僕らの世代のような地元の美術を残していこうという意識に対し若い人と話が合いません。千曲市で大して美術作品が売れるわけでもありません。時代の流れを感じました。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年7月4日号掲載



