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私の歩み 伝田高広さん
My history Denda takahiro


26 宝もの
人に恵まれた演奏家人生 「もっとうまく」変わらずに 昨年10月のホクト文化ホールでのリサイタルで(撮影・村松弘敏) ヨーロッパの著名指揮者の中で特に私が好きなのはセルジュ・チェリビダッケ氏です。ドイツ・ケルンに留学して間もない頃、慣れないドイツのオーケストラの仕事に行くとチェリビダッケ氏がいました。当時23、24歳の私からは畏敬の存在であり、怒られないように小さくなって吹いていました。圧倒的な存在感を放つ指揮でした。妻に話しても信じてもらえませんでしたが、「あれは遠い昔見た夢だったのではないか」と自分で自分を疑うようなこともあります。 ヨーロッパで誕生し発展したクラシック音楽。それを丸ごと受け止め引き継いできたヨーロッパの国々で、人々は自然で力強い音楽観を身に付けています。現地で見聞きし体験したものは、間違いなく私の音楽人生の重要な一部になっています。ヨーロッパでの体験を言葉で伝えることはありませんでしたが、これまで出会った多くの生徒たちに何かしら伝えることができたのでしょうか。 1979年からほぼ毎年、リサイタルを開催してきました。プログ


25 教え子たち
信大生・音大志望者を指導 門下生が集まり演奏会も 来日したシュタルダー先生(中央)の公開レッスンを受ける小諸高校の生徒と通訳する私(左) 私が留学から帰国後まもなくして、山ノ内町の市川弘樹君という高校生が個人レッスンに通ってくるようになりました。高校の吹奏楽部長を務め、熱心でやる気がありました。武蔵野音楽大学に進学しましたが、「どうしてもスイスに行きたい」と音大を中退して、私が学んだバーゼル音楽院に留学し、私の恩師のシュタルダー先生に師事しました。卒業後はオーケストラなどで活動し、結婚して今もスイスで暮らしています。 私がスイスを訪れた時、市川君とシュタルダー先生と私の3人で久しぶりに会い、食事をしました。そこで市川君はシュタルダー先生のことを「ハンス!」と名前を呼び捨てにしているのに驚きました。 かつて私がバーゼル音楽院にいた頃、学生生活に慣れるとシュタルダー先生から「そろそろヘル・シュタルダー(シュタルダー先生)ではなく、ハンスと呼ぶように」と何度も言われました。いくら自由奔放な性格の私でも自分の師の名前を呼び捨てには絶対にできないと思


24 後援会ができる
数々のコンサートを支援 豪華な演奏家との共演も ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団と共演する私(右から2番目、左端がキュッヒルさん)。後援会が作ってくれたそろいの法被姿で演奏した 1983年、欧州で当時活躍中の日本人演奏家による「西ドイツ・ダルムシュタットアンサンブル」が来日した際、長野公演で彼らと共演しました。欧州で磨かれた芸術性や技術力は素晴らしく、私にとって大変刺激的なものでした。声をかけてくれたのは、ケルンで一緒だった上田市出身のホルン奏者の山岸博さんで、その後、読売交響楽団の首席奏者になりました。 この時、特に華やかですごいと感じたのがバイオリンの西田博さん。彼とは同い年で、「また一緒にやろう」と意気投合し、彼が次に帰国した時には2人でコンサートをしました。その後、彼は東京交響楽団のコンサートマスターに就き、テレビ番組「題名のない音楽会」などで活躍を目にしました。 西田さんが出身地の愛知県瀬戸市で開いたリサイタルに長野の友人たちと聴きに行った時のこと。リサイタル後の打ち上げで、「西田博後援会」の人たちがしっかり支援しているこ


23 ライナー・ゾンネ
旧友と約10年ぶりの再会 名門オケのコンマスに 写真メセナホールの楽屋でライナー・ゾンネ(右)と テレビでベルリンフィル管弦楽団の野外フェスティバルの演奏を見ていたら見覚えのある顔に思わず「あっ」と声が出ました。ドイツのケルンの寮で一緒だったバイオリン奏者のライナー・ゾンネでした。10年ほどたっていましたが、面影はそのままでした。 たまたま寮で一緒になった友人が名門・ベルリンフィルのコンサートマスターになったかと思うと感慨無量でした。一緒にテレビを見ていた妻は、「ベルリンフィルのコンマスと友人だなんて信じられない」ととても驚いていました。 彼とはよく寮の食堂で顔を合わせていました。彼はちょっといたずら好きでしたが、寮のリーダー格で存在感がありました。ドイツでは歌劇場から小さな村の教会までクラシック音楽を演奏する場があり、音大生はよく演奏を頼まれていました。彼にはそうした演奏の仕事がたくさん集まり私たちに紹介してくれました。 彼とは同じケルン音楽院のオーケストラや授業で一緒に演奏しましたが群を抜いてうまいという印象はありませんでした。もっと


22 フルート職人探し
親友の依頼で求人募集 日本人2人紹介 スイスへ 1984年、スイスの自宅でイヨルク(左)と子どもの頃のアドリアン 私が日本に帰国してからしばらくして、イヨルクから「日本人の優秀なフルート修理の技術者を探してほしい」と連絡がありました。日本のフルートメーカーの技術は高く、数社が世界に知られるようになっていて、イヨルクは特に「ムラマツ」の技術者を欲しがっていました。 イヨルクはじめ店の技術者たちは優秀でスイスの著名な管楽器奏者たちから厚い信頼を得ていました。この店で腕を磨き独立していく人もいて、抜けた人材の穴埋めをするのに苦労しているようでした。クラリネット奏者の私はフルートメーカーにつてがなく、求人・採用事情も疎かったのですが、困っている親友のイヨルクの力になりたいと強く思いました。 まず、私は有名な音楽雑誌に「スイスでフルート修理の職人募集」と広告を出してみました。すると数人の応募がありました。私が面接の様子を逐一イヨルクに報告して一人の男性に決まりました。彼は、ドイツ語は話せませんでしたが、技術者としての向上心は強く持っているように感じ


21 留学から帰国
音大時代の伴奏者と結婚 初のコンサートは地元で 日本帰国前、クリエンス吹奏楽団の仲間がプレゼントしてくれた寄せ書き 1977年、ソリストディプロマの資格を取った私は将来のことを考えるようになりました。スイスには大切な師のシュタルダー先生やイヨルクはじめクリエンスの仲間がいて、地元の学校で教え、吹奏楽団の指導やオーケストラでの演奏の仕事も充実していました。将来的にスイスで安定した生活が送れるだろうと思いました。 一方で将来が見えてしまったようにも感じました。私が欧州に来たのはクラリネットの勉強をするため。「音楽学校卒業」という目標を達成したら日本に帰国するのは自然な流れです。留学中に一度だけ帰国した際に母はかなり年老いたように見え、「このまま帰って来ないのか」と言われた時は切なくなりました。 一時帰国からスイスに戻ると、シュタルダー先生から「トーンハーレ交響楽団の入団試験があったので君を探したのに…」と叱られました。オーケストラは団員に空きができた時に試験を行います。先生は私に入団試験を受けさせたかったのですが、私は一時帰国していたため試験を


20 民俗音楽「レントラー」
パブで演奏「上手」と評判に ラジオ局に招かれ演奏も フレディ宅で夫妻と私(右) スイスやドイツ南部の各地に伝わる民俗音楽にレントラーがあります。スイスでは軽快なテンポやリズムのものが多く、スイスの山々が思い浮かびます。スイスのレストランやパブには、レントラーを演奏できるようにコントラバス、アコーディオン、ピアノ、ドラムなどが置いてあることも珍しくありません。演奏すると盛り上がり、演奏に合わせて手拍子や掛け声がかかり、踊り始めます。 私が参加していたクリエンス吹奏楽団でも、練習が終わってパブに行き、みんなで飲んで食べて盛り上がると、自然とレントラーの演奏が始まりました。私は初めは聞いていただけでしたが、何度か通ううちに仲間に促されてクラリネットでレントラーの演奏に参加するようになりました。 お酒が入っていたこともあり、気分良く演奏していると、周りのお客さんから大きな拍手が起こりました。席に戻ると、知らない人がよくお酒をごちそうしてくれました。きっと、初めて見る東洋人がレントラーを乗り良く演奏していることに驚いたのと同時に、うれしかったのだと思


19 クリエンス吹奏楽団
日本人指導者に温かく 素晴らしい仲間に感謝 オランダに演奏旅行した時のクリエンス吹奏楽団 私は、「バーゼル音楽院」に入学後も住居を変えずに、イヨルクが紹介してくれた「クリエンス吹奏楽団」を指導しました。団員にとって私は初めての日本人指導者だったと思いますが、大歓迎してくれました。 私が入団して約半年後に行われたオランダへの演奏旅行では、私にも制服を作ってくれました。国境での入国審査の際、バスの車内に入ってきた検問官は最前列に座る私が明らかに東洋人だと思ったようでしたが、「全員スイス人か」と質問しました。すると、団員みんなが「そうだ」と声をそろえました。私はびっくりしましたが、ビザの確認が面倒だったのか検問官が何もなかったようにバスを降りると、車内は大笑い、どっと盛り上がりました。私は「スイス人」としてクリエンス吹奏楽団の一員に認められたと感じた瞬間でした。 アマチュアの吹奏楽団でしたが、スイスの風土に培われた音楽性はしっかり持っていて、地元の祭りやイベントでは見事な演奏をしていました。練習後はパーティーになり、お酒と食事を楽しむと最後は決ま


18 イヨルクさん
腕の良い楽器職人と再会 家族ぐるみの付き合いに イヨルクさん(左)の店で試奏する私 スイスでは運命的な再会がありました。私がドイツのケルン音楽院に在籍していた頃、スイスのルツェルンで行われたシュタルダー先生の「マイスターコース」に参加しました。しかし、持参したクラリネットが壊れてしまい、スイス人の受講生に楽器修理店はないか聞くと、とてもいい修理店があると教えてくれました。その店に行くと、見覚えのある職人が出てきました。フランスの管楽器メーカー「ビュッフェ・クランポン」の日本支店にいたイヨルク・ローリーさんでした。 私は武蔵野音楽大学の学生だった頃、楽器の修理などのために同店を利用していました。日本で入手が難しいフランスの楽譜があり、おしゃれでフランスの雰囲気を感じられる音大生憧れの店でした。彼は本社から派遣されていた唯一の外国人社員であり、とても目立っていたので覚えていました。彼も私を覚えていて「まさかルツェルンで会えるとは」と再会を2人で喜びました。 イヨルクはビュッフェ・クランポンを退職後、独立してルツェルンに自分の店舗兼工房を構えまし


17 シュタルダー先生に師事
新視点で作品捉える姿勢 ソリストディプロマ取得 シュタルダー先生の自宅で古楽器を演奏する先生(右)と私 シュタルダー先生はいつもブラウンのブルゾンを着て、車はシトロエン。ゆっくりトコトコ走る車で、私たちはエンテ(アヒル)と呼んでいました。ファッションにはほとんど関心がないようでしたが、ユーモアのある静かな紳士でした。 先生の奥さんはフルート奏者で、父親のブルクハルトさんはスイスのとても有名な作曲家でした。チューリッヒにある先生の自宅は派手ではなく、落ち着いた品のある瀟酒(しょうしゃ)な家で、家からチューリッヒ湖が見えました。先生は私に「大丈夫か」「お金はあるのか」とよく心配してくれました。おばあさんも、私が日本の湯のみ茶わんをプレゼントすると喜んで、いつもその茶わんで紅茶を飲んでいました。 先生はシュタルダー木管五重奏団を率いて現代音楽の新しい作品を初演したり、充実した演奏活動をする一方で、古楽器コレクターでもありました。 クラリネットは、16〜17世紀ごろにフルートやオーボエ、ファゴットが誕生・普及した後の18世紀初めに誕生した、木管楽


16 スイスに移住
作曲科に籍 難解な授業 1年後バーゼル音楽院へ ルツェルン音楽学校を再訪した際の私(右)と楽器職人のイヨルクさん 初対面の時のシュタルダー先生は落ち着いた紳士といった印象で、何よりフランス式のクラリネットの演奏がスマートでした。 講習会で私の演奏を聴いた先生から「スイスに来られるなら教えてあげる」と言われ、私はスイスに行こうと決めました。しかし、先生が「バーゼル音楽院」(現・バーゼル音楽大学)で教えるのは1年先のこと。スイスの学生ビザを取る必要がある私のために先生は、友人のバイオリニストが学長を務める「ルツェルン音楽学校」の入学を取り計らってくれ、知り合いのペーター・ベナーリ先生が教える作曲科に籍を置くことになりました。私は作曲の知識などまったくなく戸惑いましたが、シュタルダー先生自ら尽力してくれたのはうれしかったです。 入学手続きはシュタルダー先生がしてくれ、私のスイス移住の保証人にまでなってくれました。今思えば、シュタルダー先生にとって日本人に教えるのは初めてだったろうし、どこの馬の骨とも知れない若い留学生をよく世話してくれました。..


15 クライン先生
「ドイツ式に変えなさい」 度々言われ気まずくなる 寮の部屋でクラリネットの練習をする私 私がケルン音楽院(現・国立ケルン音楽大学)で師事したフランツ・クライン先生は、世界的にも知られる「バイロイト祝祭管弦楽団」のメンバーでした。 ドイツにはオペラを上演する歌劇場がたくさんありますが、「バイロイト祝祭管弦楽団」は、各地にある歌劇場のトップクラスの奏者をえりすぐって編成され、先生は、その中でソリストを務める実力者でした。切れのいいスタッカートをワンブレスで2分間も続けてしまうパワーとテクニックは信じられないものでした。 クライン先生に初めて会った時は、名前に反して相撲取りのような巨体に驚きました(ドイツ語でクラインは小さいという意味)。先生がクラリネットを持つとまるでおもちゃのようでした。レッスンでは、何か気に入らないことがあると、ぷいっと怒って部屋を出て行くことがありました。私たちが困っていると、しばらくしてコーヒーを片手に戻って来て、何事もなかったように「さあ、始めて」とレッスンを再開することが何度もありました。 レッスンではエチュード(
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