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私の歩み 伝田高広さん
My history Oka masako


12 「毎コン」入選
「この道で頑張ろうか」と 村井先生の勧め 独に留学 約30年前、長野市を訪れた村井先生(左)と私 1972年、武蔵野音大4年生の時、日本の権威あるコンクールの一つ「毎コン」(現・日本音楽コンクール)に出場しました。期待の反面、不安や焦りもありました。本選出場者にはモーツァルトのコンチェルトを暗譜で吹く審査があること、私のピアノ伴奏者が留学を控えた優秀な学生でしたが、ライバルとなる出場者の中には有名なプロの伴奏者に頼んでいる人もいたことなど、情報のなさを感じました。 1次、2次の予選で課題曲を演奏し、基礎力と表現力を審査され本選出場者が決まります。私は本選出場者6人のうちの1人に選ばれました。武蔵野音大から何人も出場しましたが、本選に残ったのは私一人でした。 私の1年先輩に、69年の毎コンで3位になったファゴットの岡崎耕治さんがいました。演奏楽器は違いましたが私が目標とする一人でした。クラリネットでは2年生の時の先生だった松代晃明先生以来11年ぶりの本選出場になり、大学で評判になったようです。 本選に選ばれた時は「本当なのか」と信じられない


11 村井先生との出会い
「揺らぎ」や「響き」を大切に 新しい世界が見えた思い クラリネット科の親友らと(中央が私) 村井祐児先生との出会いは大学2年生の時でした。村井先生は留学先のドイツから帰国して武蔵野音楽大学の1年生を教えていました。村井先生の指導で1年生の演奏がめきめき上達しているのを見て、焦りを感じるようになりました。なぜ1年生がうまくなったのか。その理由は村井先生の指導によるものではないか—。そう考えた私は村井先生の演奏会に出かけました。 演奏会の印象は、村井先生とステージにいたバイオリンやチェロ、トランペットなど共演者の顔ぶれのすごさでした。欧州留学で腕を磨き、戻ってきてから日本のクラシック界に新しい風を吹かせ始めた若手ばかりを共演者に選んでいました。曲目もモダンで、ストラビンスキーやアルバン・ベルクなど、当時としてはかなり前衛的な曲を演奏していました。村井先生の演奏は素晴らしく心の底から感動しました。村井先生には時代の先を見る目があると感じ、師事したいと思いました。 村井先生に個人レッスンをお願いすると、快く引き受けてくれました。村井先生のレッスンで


10 妻との出会い
親友紹介のピアノ伴奏者 息が合い試験では「S」評価 結婚後は、何度も夫婦でステージに立ちました 武蔵野音大1年生の秋、ピアノ伴奏に合わせてクラリネットを演奏する試験がありました。 ピアノ科の学生に伴奏をお願いしようにも知り合いがいないので苦労していると、親友の尾崎君が私より1歳年下のピアノ科の学生を紹介してくれました。 ピアノ伴奏を付けるのは初めてで、吹奏楽部を離れて一人でクラリネットを演奏することに慣れていた私は急に足かせを付けられたような不自由さと不思議な感覚があり、ピアノとの合奏はなかなかうまくいきませんでした。 当時、1年生ながら奏者として目立つ存在だった私を生意気だと思っていた先輩もいたようです。練習室で合わせていると、前を通りかかった上級生や大学院生らは「伝田、そこはそうじゃないよ」と声をかけてきたり、練習室の中に入り込んで椅子を引っ張り出して座り込み、長時間いろいろ指摘されたりもしました。ピアノの伴奏に関してまでアドバイスしてきたこともありましたが、私は上級生には表立って嫌な顔もできず苦笑いするしかありませんでした。...


09 武蔵野音大入学
新しい世界にわくわく 学園祭での演奏が話題に 友人と(左端が私)。武蔵野音大の校舎は当時としてはとてもおしゃれだった 1969年4月、武蔵野音楽大学クラリネット科に入学しました。これからは新しい世界に行ける—と、わくわくした気分でした。 高校3年生の夏から約1年半、千葉国夫先生に厳しく鍛えられたおかげで、入学した時点でエチュード(練習曲)はかなり進んでいたので、全学年から選抜される学内オーケストラにも1年生から参加できました。 1年生の冬、来日中のフランスの著名なクラリネット奏者ジャック・ランスロさんが大学を訪れ、4年生と大学院生に公開レッスンをしました。私が友人とキャンパス内にいた時に千葉先生から突然呼び出されて行ったところ、ランスロさんの作ったエチュードを本人の前で吹くように言われました。 私は特にプレッシャーを感じることもなく素直に吹いたと思います。吹き終わった後には、通訳を通してランスロさんから「フランスに来たら教えてあげます」と言われました。千葉先生に「どうするのか」と聞かれた私は、「もっと勉強してから考えます」と答えると、先生


古墳時代から現代まで
「疫病退散」「除災」資料展示 県立歴史館 平城宮・平城京跡から出土した祭祀具が並ぶコーナー 千曲市の県立歴史館は11月16日(日)まで、秋季企画展「疫病退散!除災祈願の考古学〜木製祭祀具にみる古代の祈り」を開いています。 千曲市屋代遺跡群の発掘調査で大量に出土した7〜8世紀にかけての「木製祭祀具」と、同時代の藤原京と平城京の都城跡から出土した「木製祭祀具」を中心に、古墳時代から現代まで「疫病退散」や「除災」を願う人々の祈りにまつわる資料計356点を展示しています。 7世紀末から8世紀初めにかけては全国各地で天然痘など疫病が流行。医療が発達していなかった当時、国は神社や寺院に祈祷を命じたほか、災禍や罪、けがれを取り去るために、人形(ひとがた)などの祭祀具を用いた「祓いの祭祀」を行うことで疫病退散を願ったといいます。 展示では、祭祀に用いた土器や土馬(どば)などの土製品、鈴などの金属製品、人や馬、鳥などをかたどった形代や斎串(いぐし)といった木製品などを時代や地域別に紹介しています。 屋代遺跡群の出土品では独自のものとされる蛇形の木製祭祀具


08 1年間の浪人生活
音大受験勉強に明け暮れ 厳しくとも楽しい時間も 武蔵野音大生となった私(前列左)と千葉先生(後列左端) 現役時に東京芸術大学と桐朋学園大学の受験に不合格となった私は、東京の音大受験生向けの予備校に入りました。しかし、当初は友達のアパートに居候していて帰宅後の練習場所がなかったため、3カ月ほどで長野の実家に戻ることにしました。兄が知り合いの職人さんに頼んで、実家の私の部屋に吸音材を取り付けて防音室にしてくれたので、楽器の音を気にせず練習に打ち込むことができました。また、ピアノと歌唱、ソルフェージュをまとめて教えてくれる先生のレッスンを受け始めました。 千葉国夫先生の東京でのレッスンにも月2回、夜行列車で通いました。先生は、私が音大受験に失敗したことに対して、特に何も言いませんでした。 先生の指導では、基本である正しいリズムと音程はもちろんですが、「いい音とはどういう音かよく考えろ」とよく言われました。口下手で口数の少ない先生でした。それだけに、まれに「それでいい」と褒められた時の喜びは余計に大きく感じました。指導を受けるうちに次第に何が悪くて


07 東京へレッスン通い
先生宅は生徒が全国から 生の演奏聴き大きな刺激 高校3年生の修学旅行で京都・奈良を訪れた時の私 高校3年の夏休み、私は、東京・江古田の武蔵野音楽大学で開かれた音大受験生向けの夏期講習会に行きました。東京は中学の修学旅行以来で、音大のキャンパスを見るのは初めてでした。キャン...


06 長商吹奏楽部
クラリネットに夢中に 顧問の勧めで音大目指す コンクールで、大きな振りで指揮をする私(手前) 1965年4月、長野商業高校に進学した私は迷わず吹奏楽部に入りました。高校では好きな楽器を選ぶつもりでした。 メロディーを演奏する楽器が絶対条件で、まず希望したのは金管楽器の花...


05 柳中吹奏楽部
単調な「後打ち」練習に落胆 リズムの大切さを教わる 中学生の頃、休日に訪れた善光寺六地蔵の前で 昭和30年代の柳町中学校は、生徒数が多い県内屈指のマンモス校でした。私が入学した1962(昭和37)年は1年生が14組、2年生は15組、3年生は16組もありました。...


04 合唱団に入る
音楽にふれた最初の経験 人前で披露 気持ちよく 仲良くしてくれた病院の先生の研究室に行った時の私 1956(昭和31)年、権堂町にほど近い鍋屋田小学校に入学した私は相変わらず、友達と権堂町の道端で「パッチン」をして遊ぶことに夢中でした。7歳上の兄はすでにパッチンを「卒業」...


03 活気にあふれた権堂町
通りは人であふれ店繁盛 映画館の隣に「丸光百貨店」 秋葉神社裏にある国定忠治の墓 「赤城の山も今宵を限り…」のせりふで有名な江戸時代の侠客国定忠治。権堂町は、娘を身売りした農民を忠治が助けた逸話の舞台で、忠治の墓が秋葉神社裏にあります。明治屋の横にあった「忠治柳」は残念な...


02 生まれは権堂町
町が「わが家」 歓楽街の活気 7歳上の兄が父親代わり おしゃれをして母の店の前で 1949(昭和24)年、12月21日、私は長野市権堂町で生まれました。母の澄子は権堂3丁目で「ミマツ」という名前のバーを経営していました。カタカナでミマツと書かれた大きなガラス戸は子どもな...


01 クラリネット一筋
柳中で始めてから60年余 恒例のリサイタル今も ステージに立つ私 クラリネット奏者として活動して50年以上たちました。75歳の今も、後援会はじめ多くの人たちの応援を得て、吹奏楽の指導や個人レッスンなどをしながらステージに立っています。10月12日(日)にホクト文化ホールで...
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