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04 合唱団に入る

  • 9月20日
  • 読了時間: 3分

音楽にふれた最初の経験 人前で披露 気持ちよく

仲良くしてくれた病院の先生の研究室に行った時の私
仲良くしてくれた病院の先生の研究室に行った時の私

 1956(昭和31)年、権堂町にほど近い鍋屋田小学校に入学した私は相変わらず、友達と権堂町の道端で「パッチン」をして遊ぶことに夢中でした。7歳上の兄はすでにパッチンを「卒業」し、野球に打ち込んでいましたので、兄が持っていたたくさんのパッチンを「財産」として受け継ぎ、とてもうれしかった。


 小学校生活で今も思い出されるのは学校給食です。はっきり言ってまずかった記憶しかありません。特に、牛乳代わりの脱脂粉乳は独特の風味がありました。私はそれが大の苦手で、うまく飲めませんでした。私は「これは薬だ」と自分に言い聞かせて一気に口に流し込んだ後にパンを口に入れ、脱脂粉乳を口の中から一掃し、一息ついてから、ほかのおかずをかき込みました。


 コッペパンも硬くてパサパサしていました。食べ残したコッペパンは机の中やランドセルの底に隠していました。それを毎日のように繰り返していたので、カチカチになったコッペパンがたまり、何本かたまると先生たちに見つからないようにこっそりと捨てていました。私だけでなく、周りの子どもたちも同じようにしていました。


 先生に見つかると「残すな!」と、よく叱られました。当時の日本は戦後復興の道半ばで食糧事情も悪かったからだったと思いますが、苦い思い出です。


 私は特にガキ大将でも優等生でもない「普通」の児童だったと思います。ただ、小学4、5年生の頃の学芸会のお芝居で主役を務めたことは覚えています。ロシアの民話「イワンのばか」のイワン役です。この時の相手役が、権堂町で繁盛していた中華料理店「光栄亭」の娘でした。台湾系のきれいな女の子で、お芝居の稽古が待ち遠しかった記憶があります。


 同じ頃、市内の少年少女合唱団に入りました。理由はうっすらとしか覚えていませんが、当時合唱団がはやっていたからだと思います。「天使の歌声」と呼ばれ、1955年に来日したウイーン少年合唱団の映像を見て、「やってみたい」と母にねだったことは覚えています。母もあっさりと「『制服』を買えばいいのね」と、許してくれました。合唱団の制服は「丸光百貨店」でそろえました。もともとが呉服商ということもあり、仕立てがしっかりしていました。私は制服に身を包み、年に1、2回、丸光で行われた発表会で歌いました。


 通常の練習は月に1、2回ほどでしたが、発表会前になると毎週のように練習を積んで、たくさんの聴衆の前で成果を披露する合唱は気持ちのいいものでした。母も聞きに来てくれ、元気に歌う私の姿を見て喜んでくれました。私は未熟児で生まれただけに、母は私の成長をかなり心配したようでしたが、こうして元気に小学生になった私の姿に安心したと思います。


 つい昨日まで道端でパッチンをしていたのに、どことなく「上品」な子どもたちが集まった合唱団という、まったく違った世界に飛び込んでしまったわけです。ピアノの演奏に合わせてみんなで声をそろえて何度も練習し、人前で披露する合唱は楽しかった。


 今振り返ると、音楽にふれたといえるのはこの時が初めてだったかもしれません。この時の経験が、後の音大受験の試験科目に出てくる「歌唱」で役に立ったのかなと思います。男子学生は、歌うとなるとつい照れが入ってしまいます。例えばドレミファソラシドと歌うと、普通は単純に「シ」と発声しがちですが、それを「ス」に近い「スィ」としなければいけません。苦戦する男子学生に対して、私は難なくこれをこなすことができました。

(聞き書き・斉藤茂明)


2025年9月20日号掲載

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