02 生まれは権堂町
- 9月6日
- 読了時間: 3分
町が「わが家」 歓楽街の活気 7歳上の兄が父親代わり

1949(昭和24)年、12月21日、私は長野市権堂町で生まれました。母の澄子は権堂3丁目で「ミマツ」という名前のバーを経営していました。カタカナでミマツと書かれた大きなガラス戸は子どもながらに重厚に見え、かなりハイカラな印象の店でした。お客さんも、子どもの目から見てもおしゃれな大人が多かったことを覚えています。
母は今でいうシングルマザー。兄と私をその細腕一本で育ててくれました。それだけでなく、時には自分のきょうだいの面倒まで見る太っ腹な人で、粋な潔さがありました。町中に小さなパチンコ店がたくさんあり、学校から帰っておなかをすかせていた私が母を探しにいくと、パチンコを打っていたなんてこともありました。
子どもたちは缶けりなど身の回りにあるものを何でも使って遊びにしていました。中でも夢中になったのがメンコ。私たちは「パッチン」と呼んでいました。路地裏などで子どもたちが盛んにメンコを打ちつける「パッチン!」という音が小気味よく飛び交っていました。
「つわもの」は、勝って取ったパッチンを高さ30センチほどに積み、その横に力いっぱいパッチンを打ちつけて起きた風圧で、積み上げた一番上のパッチンをひらりとめくるように落とす「おこし」という技を見せつけていました。
勝った者は自分の強さを誇示するために、取ったパッチンを家の2階からまいて、下にいる子どもたちが奪い合うこともありました。大人にとっては特別の価値のないパッチンですが、子どもたちにとってはこれで上下関係が決まります。負けたときは、「次こそは」と腕を磨きました。
パッチンでは勝ったり負けたりだった私に対し、7歳上の兄・耕司は敵なし。2階からまくなどという「下品」なことはせず、勝つことに徹する「勝負師」のようでした。
私にとって父親代わりで、忙しい母に頼まれて幼かった私の子守りをしてくれました。遊びたい盛りに母に子守りを頼まれ、いやいや乳母車を引いていって野球をしていたそうです。面倒だったけれど、乳母車の中でニコッと笑う私の顔がかわいかったと今も話します。「わがまま」な私とは対照的に優しくて強い、尊敬できる兄です。
権堂町には飲食店などの子どもが多く、営業時間に合わせて、それぞれの家庭の夕食の時間はまちまちでした。近くの家に遊びに行って、そのまま食事をごちそうになることも普通でした。外に出れば誰かが居て、遊びに困ることはまったくありませんでした。一緒に外で遊び、誰かの家で遊び、仲間といたずらもよくしました。見つかると、知らないおじさんからでも叱られました。町が「わが家」のようで、町全体で子どもを育てている雰囲気が強かった。けんかは日常茶飯事でしたが、子どもたちなりにルールがあって、楽しくにぎやかに遊んでいました。
私が生まれた頃の権堂町は、県内一の歓楽街としてとても活気がありました。繊維や瀬戸物、粉屋、酒屋などの問屋や衣料品店、パチンコなど娯楽の店が軒を連ねていました。周辺には竹重病院や中沢産婦人科医院など大きな医療機関があったほか、近隣には保健所や市役所、県庁などの公共施設もありました。
自然とそれらで働く人たちを当てにした飲食店も増えていきました。接待などに使われた高級料亭が何軒もあり、芸者さんを見かけることもたびたびでした。昼間歩いていると、三味線の音が聞こえたりしたものです。母の店も繁盛していました。今とは隔世の感があります。
(聞き書き・斉藤茂明)
2025年9月6日号掲載



