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05 柳中吹奏楽部

  • 9月27日
  • 読了時間: 3分

単調な「後打ち」練習に落胆 リズムの大切さを教わる

中学生の頃、休日に訪れた善光寺六地蔵の前で
中学生の頃、休日に訪れた善光寺六地蔵の前で

 昭和30年代の柳町中学校は、生徒数が多い県内屈指のマンモス校でした。私が入学した1962(昭和37)年は1年生が14組、2年生は15組、3年生は16組もありました。


 体育館や理科室に移動する際には大勢の中学生がおしゃべりしながら移動するので騒々しく、先生からはよく「黙って歩け」と注意されました。


 生徒数が多かった分、運動や文化・芸術に秀でた生徒も多くいて、運動部も文化部も強かった。


 柳中には給食がなく、各自弁当持参でした。母が作る弁当の定番は、卵焼きで、その下に隠すように野沢菜やみそ漬けなどがありました。今は懐かしい、ピンク色の「でんぶ」ものっていました。弁当は昼休みの楽しい時間でしたが、家計の苦しい生徒は弁当を持ってこられず、昼になるとすっと教室からいなくなるといった光景も珍しくない—まだ、そんな時代でした。


 私が音楽と本格的に出合ったのが柳中の吹奏楽部でした。入学式で吹奏楽部が行った新入生歓迎の演奏を初めて聞いて、吹奏楽による合奏は迫力があってかっこいいと感動しました。私は迷わず吹奏楽部に入部しました。


 意気揚々と入ったものの、やはり部員数が多く楽器の割り振りが大変でした。人気の楽器を担当できる人は限られ、私もまたほかの部員同様に余っているからという理由で「アルトホルン」を手にしました。小学校の頃同じ合唱団だった1年上の憧れの先輩もアルトホルン担当でした。学校が所有する楽器でぼろぼろでしたが、初めての楽器だったため、練習の合間にさびを必死に磨き落としました。もっとも、当時はあまり楽器に詳しくありませんでした。しかし練習をしているうちに、「後打ち」(裏拍)のリズムをずっと繰り返す「地味」なパートだと気づき落胆しました。

 単調さに耐えかねて、ある日の練習中、隣にいた先輩に「ン・タ・ン・タ・ン・タばかりでつまらない」と愚痴ったら、先輩は、「違うぞ。楽譜をよく見ろ! ン・タ・ン・タ・ン・タと続いた後に、タララ〜と三音だけメロディーが来るだろ。そこに命を懸けろ!」と言うのです。「そうですか」と口には出しましたが、戸惑いは消えず、心の中では「何言っているんだよ」と、誰ともなく恨みました。


 こんなこともありました。家でアルトホルンの練習をしていると、隣に住んでいた人が私が吹く音を豆腐屋さんのラッパの音と間違えて、「お豆腐屋さん〜」と鍋を片手に出てきました。


 私がつまらないと愚痴った1年先輩は、後に国立音大に進学し、卒業後は長野県で音楽教師となり校長先生まで務められました。私が欧州留学から帰国した際には、中学校の吹奏楽部の指導を頼まれたこともありました。


 部活は大人数だっただけに部員間での競争が激しく、「1軍」と「2軍」がありました。そんな中で、もまれて鍛えられた私は1軍メンバーの一人として県大会で上位入賞を果たしました。努力が報われたようでうれしかった。


 当時、後打ちは「拷問」のようにすら感じたこともありましたが、3年間続けたことで正確なテンポ感が鍛えられ、リズムの大切さを教え込まれました。熱心に指導してくれた、顧問の土屋重人先生の存在は大きかった。先生の指導からは、音楽の持つ説得力のすごさを感じました。


 しかし、「いつか必ず、メロディーパートを吹いてやる!」という思いは消えるどころか、ますます強くなっていきました。

 (聞き書き・斉藤茂明)


2025年9月27日号掲載

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