01 クラリネット一筋
- 8月30日
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柳中で始めてから60年余 恒例のリサイタル今も

クラリネット奏者として活動して50年以上たちました。75歳の今も、後援会はじめ多くの人たちの応援を得て、吹奏楽の指導や個人レッスンなどをしながらステージに立っています。10月12日(日)にホクト文化ホールで開催する恒例の「伝田高広クラリネットリサイタル」を控え、練習に励んでいます。
私は権堂町で生まれ、母は飲食店を営んでいました。音楽との出合いは柳町中学校時代。入学式で吹奏楽部の演奏に感動して吹奏楽部に入部し、アルトホルンを担当しました。クラリネットを初めて手にするのは、長野商業高校の吹奏楽部でした。後打ちのリズム主体だったアルトホルンと違い、念願のメロディーを吹けるとあり、張り切りました。「長商デパート」では、顧問の室星道彦先生のピアノでモーツァルトを演奏したのも良い経験でした。「音楽の道に進みたい」と、音楽大学進学を真剣に考え始めました。当時から音大は学費が高いことで知られていました。その頃の権堂町は県内一の歓楽街で、店は繁盛していたとはいえ音大の学費の工面は大変だったはずです。上京してからの一人暮らしも想像もつかない世界であり、母はさぞ心配だったでしょう。室星先生の熱心な説得があり、音大進学を決めました。その時の母の潔い決断には今も感謝しています。
音大受験に関する情報や対策はほとんどなく、受験勉強もかなり出遅れたため、現役での挑戦は不合格。受験浪人中にNHK交響楽団(N響)首席クラリネット奏者の千葉国夫先生のレッスンを受けました。東京に月1回夜行列車に揺られて通い、たくさん叱られ、鍛えられました。
一浪の末、武蔵野音楽大学クラリネット科に合格。大学ではクラリネット漬けの毎日でしたが、同じように音楽家の夢を持つ仲間に囲まれながら練習に打ち込んだ、あっという間の4年間でした。4年生の時、日本で権威あるコンクールの一つ「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)での入賞が自信になり、恩師の一人だった村井祐児先生の勧めで、卒業後は、ドイツに留学しました。
留学先のケルンの音楽学院ではフランツ・クライン氏に師事。寮では各国から個性豊かで、技量が高い学生が集まり、刺激的な毎日でした。中には、後にベルリンフィルのコンサートマスターを務めた友人もいたほど。その友人とは随分たってから、須坂メセナホールにベルリンフィルのメンバーと公演に来た際、感動の再会を果たしました。
スイス留学では、敬愛するシュタルダー先生の生徒になるため、煩雑な手続きをしなくてはなりませんでしたが、先生の助けもあり、無事入学しました。特定の課程を修了し「ソリストデュプロマ」を取得後、卒業する頃にはプロの楽団で演奏したり、学校や地元の吹奏楽団などで指導したりしながら、たくさんの仲間ができました。
約4年間の留学生活を終え、1977年に帰国。79年には、権堂で伯母の店を引き継き、レッスン場とバーを兼ねた「D・B・スタジオ」を開店しました。大学時代にピアノ伴奏をしてくれた松岡絵里さんと結婚し、国内で初めてのリサイタルを開催したのもこの年です。その後、「ドイツ・バッハゾリステン」「仏リヨン国立管弦楽団」「ライプツィヒ弦楽四重奏団」「コチアンカルテット」「ウイーンムジークフェライン弦楽四重奏団」など国内外の演奏家と共演を果たしてきました。また、個人レッスンのほか、中学、高校の吹奏楽部などの指導にも力を入れ、信州大学教育学部と、公立では珍しい小諸高校音楽科の非常勤講師も務めました。
私は、クラシック音楽での欧州留学を経てプロの演奏家になった、末席ながら先駆けとしての経験をご披露し、好きなものはいかに苦しいことがあっても頑張れる、そして夢はかなう—と伝えられればと思っています。
(聞き書き・斉藤茂明)
2025年8月30日号掲載
伝田高広さんの歩み
1949 S24 長野市権堂町で、母澄子の次男として生まれる
1956 31 鍋屋田小学校入学
1962 37 鍋屋田小学校卒業 柳町中学校入学
1965 40 柳町中学校卒業 長野商業高校入学
1968 43 長野商業高校卒業
1969 44 武蔵野音楽大学入学
1972 47 音楽コンクール入賞
1973 48 武蔵野音楽大学卒業 ドイツ・ケルン音楽学院留学 スイス・バーゼル音楽院
入学 スイス・バーゼル音楽院卒業ソリストデュプロマ取得
1977 52 帰国
1979 54 権堂町にD.B.スタジオ開業、松岡絵里さんと結婚 初めてのリサイタルを
開催 中学・高校、楽団などでの指導、個人レッスンを開始
1980 55 長女・真央誕生
1995 H7 信州大学教育学部(2004年2月まで)、小諸高校音楽科(2010年3月まで)
講師に就任
2009 21 毎年恒例のリサイタルをスタート



