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03 活気にあふれた権堂町

  • 9月13日
  • 読了時間: 3分

通りは人であふれ店繁盛 映画館の隣に「丸光百貨店」

秋葉神社裏にある国定忠治の墓
秋葉神社裏にある国定忠治の墓

 「赤城の山も今宵を限り…」のせりふで有名な江戸時代の侠客国定忠治。権堂町は、娘を身売りした農民を忠治が助けた逸話の舞台で、忠治の墓が秋葉神社裏にあります。明治屋の横にあった「忠治柳」は残念ながら切り倒されてしまいました。芝居の中で忠治が対峙する山形屋藤蔵の「山形屋」と書かれた漬物おけのふたが私の家の物置きから見つかったときはびっくりしました。


 子どもの頃のとても活気があった権堂町を、記憶を頼りにもう少し紹介したいと思います。


 今思うと、私がまだ子どもだった昭和20年代。戦後間もない頃ですが、敗戦の暗さは感じませんでした。繊維のほか、瀬戸物や粉を扱う店などが集まった大問屋街をなし、パチンコなどの娯楽の店や衣料品店も軒を連ね、近くの善光寺を訪れた観光客も含め通りは人であふれていました。かつて「花街」として人とお金を集めたにぎわいが問屋街に受け継がれ、元気な町の人たちが戦後復興を担ったのだと思います。


 次第に町で働く人や買い物客、観光客を相手にした飲食店も増えていき、県内有数の繁華街になりました。母の営む飲食店も繁盛し、伯母も小さな店を始めました。伯母は商売のセンスがあったのか、後にキャバレーやクラブ、中華料理店、喫茶店などからなる「ニューゴンドー」を展開しました。


現在の権堂商店街アーケード
現在の権堂商店街アーケード

 芸者さんやホステスさんなどは働く飲食店の2階や近くの貸家などで生活し、彼女たちが通う美容院も繁盛していました。今も路地裏に点在する古い長屋を見ると当時の面影が感じられます。


 プロ野球巨人軍の長嶋茂雄さんや王貞治さん、当時大人気だった歌手のディック・ミネさんを見かけたこともありました。「何でここに!」と驚きましたが、善光寺などの節分会に招かれたのでしょう。著名人が長野に訪れたときに接待するにふさわしい店がたくさんありました。


 「丸光そごう」(後に長野そごう)の前身の「丸光百貨店」は長野相生座・ロキシーの隣にありました。木造2階か3階建てで、品ぞろえ、品質ともに充実し、ほかでは見ない高級食材も並んでいました。その後、今のTОiGО(問御所町)の場所に大規模店舗を構えました。


 「タヤマスポーツ」には、テニス・スキー・野球用品などが数多くそろい、お金持ちや流行に敏感でおしゃれな人たちが集まっていました。秋葉神社のお祭りには、こうした町内にある会社や店が競うように寄進し、今振り返ると「まちのプライド」が高かったように思います。


 権堂町に魚市場、隣の上千歳町には青果市場がありました。市場で早朝働いた後、昼間からお酒をあおる人も多く、夜と朝・昼では、違った空気感があり、活気にあふれていました。


 私が通った長野中央幼稚園(西後町)は今はもうありません。町中に響いた子どもの声が消えてしまったみたいで残念です。


 今年、権堂アーケードの屋根の改修が終わりました。小学生の頃、初めてアーケードができた時は画期的でした。雨にぬれずに買い物ができるとあって、長野電鉄の権堂駅には、須坂市などからも多くの人が訪れるようになりました。新しいアーケードに加え、最近では昭和レトロの街並みを新鮮に感じる若者が開いた話題の店もあり、この町に活気が戻ることを期待します。

(聞き書き・斉藤茂明)


2025年9月13日号掲載

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