top of page

149 御巣鷹の尾根

胸を衝かれる墓標の光景

遺体発見現場の急斜面に林立する犠牲者の墓標

 乗員乗客520人が死亡し、単独機としては世界最大の航空機事故となった日航ジャンボ機墜落から39年。8月12日の「慰霊の日」を前に、同月上旬、友人と墜落現場の御巣鷹の尾根(1565メートル)へ慰霊登山に出かけた。

 事故が起きた当時、私は信濃毎日新聞報道部の社会キャップだった。終始社内にいて、県内全域から動員した記者たちへの取材指示や記事のまとめに追われた。7月末の地附山地滑り災害に続く大事故発生で疲労困ぱい、ついぞ現場に行く機会はなかった。

 そのことが心残りとなっていたところ、最近再び事故の真相を問う書籍が出版されるようになり、本を貸してくれたT氏を誘って現地に行くことにした。

 6時に長野市内を出発。上信越道を走って群馬県に入り、下仁田インターで降りて県道を南下。長いトンネルを抜け、9時ごろ同県最南端の上野村に。

墜落現場の尾根上に立つ「昇魂之碑」

 中心部の川の駅にある観光情報センターで説明を聞き、まず近くの「慰霊の園」へ。事故の後、村民の協力で設置された追悼施設だ。高さ11メートルの慰霊塔や身元不明の遺骨を安置した納骨堂、捜索活動などの記録を展示した施設がある。

 合掌型をした慰霊塔は、約20キロ南の御巣鷹の尾根に向かって手を合わせている姿だ。2人で線香を手向け、犠牲者の冥福を祈る。

 続いて、県道を再び南下。上野ダムの横を通って山道を進むと、トイレや休憩舎のある広場に出た。ここに車を止める。石の観音像の脇には「御巣鷹の尾根 参拝道登山口」の標識も。

 てっきり、ここが登山口だと思い、歩き始める。石がゴロゴロしていて歩きにくいが、道路脇には樹脂製の手すりが続いている。

 しばらくして「みかえり峠」という場所に出ると、左側に舗装道路が走っている。新しい登山口はこの道の終点で、我々は間違って旧登山道を歩いてきたことに気づいた。

 そのまま悪路の旧登山道を歩き通す。事故当時、道なき道をこけつまろびつしながら現場を目指した記者たちの苦労がしのばれる。

 11時半ごろ、やっと新登山口に到着。用意されていたつえを借り、よく整備された道を歩き始める。

御巣鷹の尾根に向かって合掌。上野村内の「慰霊の園」

 少し上ると道路脇に「日航機墜落事故 真実の仮説」と彫り込まれた墓碑が現れた。そこには「真の加害者」「真の事故原因」について、衝撃的な内容が記されていた。

 急斜面を登り詰めると、尾根上の広場に。事故後ヘリポートになった場所で、すぐ上が墜落現場だ。立派な「昇魂之碑」があり、再び手を合わせる。

 振り向くと、谷を挟んだ向かい側はもう長野県だ。当初、「墜落現場は長野」とされたのも無理はない。

 墜落場所には、黒御影石に死亡者全員の名前が刻まれた碑が。そこには国民的歌手だった坂本九さんの本名「大島九」も。

 付近には、40年近くたっても焼け焦げた木の株が。祭壇が設けられた小屋の中には、千羽鶴の束が何本もつり下げられていた。

 遺体発見現場を通る北側斜面には、至る所に卒塔婆や石碑が立ち並ぶ。胸を衝かれる光景が広がっていた。当時9歳だった男児の墓前には、たくさんのおもちゃが積まれていた。

 新登山口に戻った後、つえを返して舗装道路を下る。30分足らずで旧登山口に着き、13時半過ぎにようやく昼食に。さすがに事故現場で食べるのは気が引けていた。

 帰路は、国道とは名ばかりの「酷道」で十石峠を越え佐久穂町へ。中部横断道から上信越道へ出て、18時すぎに帰宅した。やはり、一度は行っておくべき場所だった。

 記事=横内房寿


2024年8月31日号掲載

Comments


bottom of page