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30 岡学園80周年
母から娘へと継いで今に 100周年へ「共創」の場として オープンしたカフェ「ココラボ」の前で学生たちと(2025年4月) 2026年春、岡学園は創立80周年を迎えます。母が創立し、校長を50年間務めた後、私が校長となり30年間。戦後80年の大きな時代の変化に対応しながら親...


29 「オカイズム」の継承
カフェ「ココラボ」オープン 誰もが一緒に交流・共創 今年4月に新築オープンしたファッション科校舎(左)とカフェ「ココラボ」(右) 2022年3月に母の「お別れ会」を終えた私は、4月の新学期とともに新入生を迎え、校長としての仕事に集中していきました。悲しみは癒えるものではあ...


28 母とのお別れ
学生たちと霊柩車見送る 「同志」「恩師」…何より「大切な親」 約100メートルにわたって道の両側に並んだ学生や職員らに見送られる母を乗せた霊柩車(2023年1月) 2021年4月、岡学園が創立75周年を迎えたこととともに、母久子100歳の誕生日会を開いたことは、私たち母娘...


27 岡学園75周年
母100歳の誕生日も祝う 長寿の秘訣「学生の成長」 岡久子先生100歳をお祝いする会 岡学園の創立70周年とともに新校舎の増設や二つの新学科、コースの開設など、私は「エコマコ」をゼロから立ち上げてきたビジネス経験や、大きな組織の院長としての運営経験などを生かし、新たなこと...


26 岡学園に「全集中」
隣接の土地・建物を購入 70周年機に新学科創設へ 岡学園70周年記念式典に駆けつけてくださった(左から)杉野学園理事長、母、私 杉野学園ドレスメーカー学院(ドレメ、東京)の院長になって3年が過ぎた2014年、後任の院長はせめて思いを託せる人を自分の責任で見つけようと動き始...


25 「ドレメ」院長として
ドレメ精神継承のために 創設者の衣装作品を保存 日本ファッション教育振興会開催の服飾教育顕彰式で「服飾教育功労賞」を受賞する私(2014年2月) 2011年4月、私は杉野学園ドレスメーカー学院(通称ドレメ)院長に着任しました。母と私、親子2代の母校である同学院は、日本の女...


24 「ドレメ」院長就任
母校から 驚きの抜てき 悩み抜いた末引き受ける ドレメ院長に就任時の私 岡学園創立60周年を機に、私は校名を「OKA学園トータルデザインアカデミー」に改称しました。これまでのファッションに加え、グラフィックデザインやウェブなど、ビジュアルデザインのプロフェッショナルを養成...


23 校名を変える
創立60周年を機に決断 「デザイン」を柱に学校改革 岡学園に隣接して建設したエコマコ本社アトリエ(2006年) 1996年、38歳の時に母から、校長のバトンを引き継いだ私は時を同じくして、幼い頃からの夢だったデザイナーとしての活動も本格化していきました。世界各地でのファッ...


22 スティービーアワード
エコロジー活動認められ ビジネス界の「オスカー賞」 ビジネス女性大賞を受賞した2009年のスティービーアワード エコロジーブランド「エコマコ」のビジネス展開が進む中、私は、アジアファッションを世界に発信することを目的に創設された「アジアファッション連合会」に選抜されました...


21 ブランド立ち上げ
「エコファッション」を展開 愛知万博で作品披露も 「エコマコ」プレスリリース資料より、北京で開かれた「コレクション」(2004年)=写真左=と、「愛知万博(愛・地球博)」(05年)でのショー 2003年、県信濃美術館(現・県立美術館)での個展を終えて間もなくのこと。バッグ...


20 エコロジー新繊維
時代に一石投じる展開を 「エコマコ」ブランド誕生へ トウモロコシ由来のポリ乳酸繊維の糸 振り返れば誰にでも人生のターニングポイントとなった出会いや縁は、不思議とあるものです。私にとっても、清掃工場で受けた衝撃をきっかけに、手にしたエコロジー新繊維「ポリ乳酸繊維」との出合い...


19 OKAMASAKO展
「衣」を「アート」として表現 未来を問いかける展示も 「OKAMASAKO FASHION展」を紹介した資料 フランス・テキスタイル美術館で5カ月間にわたる展覧を終えた2002年4月。まさに同じ月に、私にとって初の日本の美術館での個展となる「岡正子展~21世紀シルクの革命...


18 海外での評価
フランスで出展の機会 デザイナーとして自信に スクリーブホテルのオーナー(左)と、作品説明する私 2000年5月、私は個展の開催とともにオリジナルブランド「OKAMASAKO」を立ち上げ、エコロジーデザイナーとして本格的に始動しました。 ...


17 エコロジーデザイナーとして
自然との共存を目指して ファッションの世界から 横に3倍伸び縮みする絹織物を開発、体にフィットした着心地を楽しめる作品群を発表。「OKA MASAKO」ブランドがスタート=2000年5月 1年半余り、無我夢中で準備してきた長野冬季五輪文化プログラム「Fashion(フ ァ...


16 長野五輪文化プログラム
屋外の会場でショー開催 世界に向けてメッセージ 信州の豊かな自然の美しさをテーマにした「Fashion for The Earth」。凍てつく寒さの中で光を浴びた衣装は美しさを増してきれいに見えた=1998年2月10日 1998年2月7日、世界中が注目する長野冬季五輪が開...


15 長野五輪を控え
「地球環境に配慮」提案へ ファッションショー計画 手染め染色の技術指導を受けながら、生地に直接絵を描いてテキスタイル制作を進める私(左)=1997年12月 長野冬季五輪を2年後に控えた1996年。私は2度にわたる清掃工場でのショーを経て、「環境とファッションの共生」をテー...


14 校長のバトン引き継ぐ
清掃工場で再びショー 環境とファッションの共生 ショーのラストでごみ投入口のドアが開き、衝撃的な光景とドレスとの対比を生んだ瞬間 1995年8月下旬、信州青年洋上セミナーを無事に終えてから数週間後、岡学園の創立50周年同窓会記念パーティーがあり、ここで母久子から、私が翌9...


13 信州青年洋上セミナー
団長を務め345人と中国へ 一人一人に手紙書き渡す 今も手元に残る30年前の寄せ書きのTシャツとパンツ 1994年、清掃工場のごみ投入フロアを会場とした環境ファッションショー開催の翌日は、新聞各紙が大きく取り上げてくださり、テレビでも番組になるなど、それらを見た多くの人か...


12 清掃工場でファッションショー
ごみ投入フロアを会場に 大きな歓声と拍手に涙 カセットテープを編みこんだ作品も登場。スポットライトにきらきらと輝いた 1991年、知人の誘いを機に長野青年会議所に入った私は、93年に同会議所の環境問題委員会に所属しました。その年の夏、委員会活動の一環で、まずは現場に足を運...


11 コンテスト挑戦に区切り
応募総数2万点の中で メンズ部門のトップに 受賞作品を着用した男性モデルとランウエーを歩く私(右)=1989年 20代の初めからファッションコンテストへの応募と受賞を重ね、学生たちもコンテストで数々の受賞をし、全国を意識する空気は学内に定着していきました。...
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