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28 母とのお別れ

  • 2025年8月2日
  • 読了時間: 3分

学生たちと霊柩車見送る 「同志」「恩師」…何より「大切な親」

約100メートルにわたって道の両側に並んだ学生や職員らに見送られる母を乗せた霊柩車(2023年1月)
約100メートルにわたって道の両側に並んだ学生や職員らに見送られる母を乗せた霊柩車(2023年1月)

 2021年4月、岡学園が創立75周年を迎えたこととともに、母久子100歳の誕生日会を開いたことは、私たち母娘にとって心に残る大切なものとなりました。懐かしい面々にお祝いしていただき、母は本当にうれしそうでした。一方、私は、もしかしたら母が皆さんと公の場で会うのはこれが最後かもしれない…と心のどこかで思っていました。


 その後、心臓機能の衰えから、母はほぼ寝たきりになりました。いつも学生たちのことを思い、常に私の指針となる姿を見せてくれていた母。自力での行動は厳しく、日を追って老いが進む母の姿に、突き付けられた現実を目の当たりにしました。それでも週に1回お医者さまに往診してもらいながら、私はできる限り母が気兼ねなく自宅で過ごせるように精いっぱい介護に努めました。


学校葬で開いた「岡久子お別れの会」。鳳凰をイメージした祭壇の前で喪主あいさつをする私(同年3月)
学校葬で開いた「岡久子お別れの会」。鳳凰をイメージした祭壇の前で喪主あいさつをする私(同年3月)

 「若い時は私も随分苦労したけれど、こんなに幸せな人生が待っていたとはね…。正子さんありがとう」と時折母に言われ、私は今こうやって母の世話ができていること、大変でも一緒にいられることが何よりありがたく、一日でも長く生きてほしいと切に願っていました。


 しかし母の体は限界へと近づいていき、23年1月、自宅で呼吸困難な母を救急車で搬送した数日後、母は息を引き取りました。101歳と9カ月。あと3カ月で母の誕生日、母の大好きな桜が咲く中で102歳を迎えられたのに…。


 母は生前、「亡くなった時はこの学校、自宅から見送られたい」と願っていました。その気持ちを大切にし、1月下旬、家族と学校関係者のみで学園内に祭壇を設け葬儀を行い、大好きな花で埋め尽くされた母を乗せた霊柩(きゅう)車が出発するのを、寒い雪の中、100メートルにわたって学生たち全員が道の両側に並んで見送りました。私はこの光景を一生忘れることはありません。


母が制作した作品など思い出の品々を展示した会場(同年3月)
母が制作した作品など思い出の品々を展示した会場(同年3月)

 3月下旬には、学校葬として「岡久子お別れの会」を長野ホテル犀北館で開きました。会場には、酉(とり)年生まれの母にちなんで鳳凰(ほうおう)のようになって天国へ飛び立っていく姿を表した祭壇や、母の作品や思い出の写真・映像、花が飾られました。いつしかそこは来場された方々が母を懐かしむ同窓会のような交流の場となり、本当に多くの皆さまに慕われていた母の存在を改めて感じました。私は、喪主あいさつの中で、「私にとって母は、ここまで共にやってきた同志であり、恩師であり、何よりかけがえのない大切な親でした。今日はお別れではなく、母の誕生日会と思って笑顔で見送っていただければ幸いです」と心よりの感謝をお伝えしました。思えば若い時からずっと、仕事で走り回る私を陰で見守りながら「正子さんね、体あっての物種だよ」と、いつも健康を心配してくれた母。母と晩年を一緒に過ごすことができたこと、そして、最後に母の思いを伝えるかたちでお別れの会を開くことができたことが、今の私にとって心の財産ともなっています。


 あれから早2年半…。入学式の季節になると、花を咲かせ始める庭の桜を見るたびに、母がほほ笑みながら見守ってくれているような気がします。


(聞き書き・中村英美)


2025年8月2日号掲載

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