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私の歩み 岡正子さん
My history Oka masako


25 「ドレメ」院長として
ドレメ精神継承のために 創設者の衣装作品を保存 日本ファッション教育振興会開催の服飾教育顕彰式で「服飾教育功労賞」を受賞する私(2014年2月) 2011年4月、私は杉野学園ドレスメーカー学院(通称ドレメ)院長に着任しました。母と私、親子2代の母校である同学院は、日本の女...


24 「ドレメ」院長就任
母校から 驚きの抜てき 悩み抜いた末引き受ける ドレメ院長に就任時の私 岡学園創立60周年を機に、私は校名を「OKA学園トータルデザインアカデミー」に改称しました。これまでのファッションに加え、グラフィックデザインやウェブなど、ビジュアルデザインのプロフェッショナルを養成...


23 校名を変える
創立60周年を機に決断 「デザイン」を柱に学校改革 岡学園に隣接して建設したエコマコ本社アトリエ(2006年) 1996年、38歳の時に母から、校長のバトンを引き継いだ私は時を同じくして、幼い頃からの夢だったデザイナーとしての活動も本格化していきました。世界各地でのファッ...


22 スティービーアワード
エコロジー活動認められ ビジネス界の「オスカー賞」 ビジネス女性大賞を受賞した2009年のスティービーアワード エコロジーブランド「エコマコ」のビジネス展開が進む中、私は、アジアファッションを世界に発信することを目的に創設された「アジアファッション連合会」に選抜されました...


21 ブランド立ち上げ
「エコファッション」を展開 愛知万博で作品披露も 「エコマコ」プレスリリース資料より、北京で開かれた「コレクション」(2004年)=写真左=と、「愛知万博(愛・地球博)」(05年)でのショー 2003年、県信濃美術館(現・県立美術館)での個展を終えて間もなくのこと。バッグ...


20 エコロジー新繊維
時代に一石投じる展開を 「エコマコ」ブランド誕生へ トウモロコシ由来のポリ乳酸繊維の糸 振り返れば誰にでも人生のターニングポイントとなった出会いや縁は、不思議とあるものです。私にとっても、清掃工場で受けた衝撃をきっかけに、手にしたエコロジー新繊維「ポリ乳酸繊維」との出合い...


19 OKAMASAKO展
「衣」を「アート」として表現 未来を問いかける展示も 「OKAMASAKO FASHION展」を紹介した資料 フランス・テキスタイル美術館で5カ月間にわたる展覧を終えた2002年4月。まさに同じ月に、私にとって初の日本の美術館での個展となる「岡正子展~21世紀シルクの革命...


18 海外での評価
フランスで出展の機会 デザイナーとして自信に スクリーブホテルのオーナー(左)と、作品説明する私 2000年5月、私は個展の開催とともにオリジナルブランド「OKAMASAKO」を立ち上げ、エコロジーデザイナーとして本格的に始動しました。 ...


17 エコロジーデザイナーとして
自然との共存を目指して ファッションの世界から 横に3倍伸び縮みする絹織物を開発、体にフィットした着心地を楽しめる作品群を発表。「OKA MASAKO」ブランドがスタート=2000年5月 1年半余り、無我夢中で準備してきた長野冬季五輪文化プログラム「Fashion(フ ァ...


16 長野五輪文化プログラム
屋外の会場でショー開催 世界に向けてメッセージ 信州の豊かな自然の美しさをテーマにした「Fashion for The Earth」。凍てつく寒さの中で光を浴びた衣装は美しさを増してきれいに見えた=1998年2月10日 1998年2月7日、世界中が注目する長野冬季五輪が開...


15 長野五輪を控え
「地球環境に配慮」提案へ ファッションショー計画 手染め染色の技術指導を受けながら、生地に直接絵を描いてテキスタイル制作を進める私(左)=1997年12月 長野冬季五輪を2年後に控えた1996年。私は2度にわたる清掃工場でのショーを経て、「環境とファッションの共生」をテー...


14 校長のバトン引き継ぐ
清掃工場で再びショー 環境とファッションの共生 ショーのラストでごみ投入口のドアが開き、衝撃的な光景とドレスとの対比を生んだ瞬間 1995年8月下旬、信州青年洋上セミナーを無事に終えてから数週間後、岡学園の創立50周年同窓会記念パーティーがあり、ここで母久子から、私が翌9...


13 信州青年洋上セミナー
団長を務め345人と中国へ 一人一人に手紙書き渡す 今も手元に残る30年前の寄せ書きのTシャツとパンツ 1994年、清掃工場のごみ投入フロアを会場とした環境ファッションショー開催の翌日は、新聞各紙が大きく取り上げてくださり、テレビでも番組になるなど、それらを見た多くの人か...


12 清掃工場でファッションショー
ごみ投入フロアを会場に 大きな歓声と拍手に涙 カセットテープを編みこんだ作品も登場。スポットライトにきらきらと輝いた 1991年、知人の誘いを機に長野青年会議所に入った私は、93年に同会議所の環境問題委員会に所属しました。その年の夏、委員会活動の一環で、まずは現場に足を運...


11 コンテスト挑戦に区切り
応募総数2万点の中で メンズ部門のトップに 受賞作品を着用した男性モデルとランウエーを歩く私(右)=1989年 20代の初めからファッションコンテストへの応募と受賞を重ね、学生たちもコンテストで数々の受賞をし、全国を意識する空気は学内に定着していきました。...


10 カラーアナリストとして
企業の制服制作に生かす 個人事務所設立 起業家に 総合色彩コンサルタントとしてコンサルティング活動中の私(1990年ごろ) 20代後半になると私は、授業で学生たちに今年の流行やトレンドカラーの話をする中で、とりわけ「色彩」について、もっと深く知りたいと思いました。週末や...


09 コンテストへの挑戦
受賞契機にメディアへ 新たな道の広がり次々と 第8回全日本ファッション大賞コンクール フォーマル部門金賞(1984年) 米国遊学後の1983(昭和58)年秋、岡学園デザイナー科の教師として再スタートを切った私は、自らがさまざまなコンテストにトライして入賞を重ねる一方で、そ...


08 4カ月間の米国遊学
「多様な世界」大切な転機に デザイン通じて自信得る ホストファミリーのオールズさん一家と本当の家族のように過ごしたロサンゼルスで(1983年) 「もっと広い世界を見たい」と考えた私は、1983(昭和58)年春、留学を勧めるパンフレットでホームステイ先を見つけて、一人ロサン...


07 長野ドレメの教師に
自分にもっと力付けたい 東京の学校で新たな学び スクーターファッションのデザイン画を描いて副賞でいただいたバイク「ジョイ」に乗って 1980(昭和55)年春、ドレメ(杉野学園ドレスメーカー女学院)を卒業した私は、長野に戻り、母が校長を務めている長野ドレメ(現岡学園)の教師...


(6) 卒業制作
「センス」評価され「優秀賞」 岡学園で教職に就く道へ 師範科(2年生)の学年末の課題「フォーマル」で制作したプリーツドレスを着た私 ドレメ(杉野学園ドレスメーカー女学院)での学生生活はとても厳しい上に、忙しいものでした。日々の授業が、そのまま作品を作り上げていくプロセスに...


05 「ドレメ」 進学
デザイナー科含む3年間 一流を見て触れて成長 ファッション画の授業の後、教室に残ったクラスメートと私(左から2人目) デザイナーになりたいという小さい頃からの夢をかなえるために1977年、私は杉野学園ドレスメーカー女学院(東京都品川区)に進学します。通称「ドレメ」と呼ばれ...


04 長野西高時代
つらかった経験を糧に 自分の「居場所」見つける ファッション雑誌のデザイン画コンテストに入賞し、副賞で頂いたスカートで写真に収まる高3の私 長野西高校に進学した私は、小中学校と続けてきた陸上部ではなく剣道部に入ります。小学校でも、中学校でも短距離の記録は一番でしたが、市・...


03 将来の夢
デザイナーになりたい… オシャレ大好き少女時代 手描きのひまわりのワンピースで写真に収まる姉と私(右、10歳ころ) 次女で末っ子の私はずっと「お父さんっ子」と言われて育ってきました。県の職員だった父は優しくて子煩悩。帰宅すると、3人の子どもたちといっしょによく遊んでくれま...


02 借家の八畳一間から
母久子が洋裁教室開く 今日の糧を得るために 新築の自宅前で父母、兄姉と撮った記念写真。手前右が私(4歳ころ) 私は1958(昭和33)年に岡正義と久子の次女として岡田町に生まれました。7歳上に兄、4歳上に姉がいる3人きょうだいの末っ子です。...


01 母と二人三脚で
戦後 学園創立から79年 学校運営とブランド経営 園を訪れた卒業生と記念撮影に収まる私(左から2人目)=2023年4月 岡学園トータルデザインアカデミーは、1946年の創立から今年で79年を数えます。これまでに数千人の学生がここを巣立ち、ファッションやデザイン業界をはじ...
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