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チョウの目覚め
「発育零点」を基準に 温度差で「春」感じる 「蠢く」—この漢字の読み方、ご存知でしょうか。「うごめく」と読みます。よく見ると、春の下に虫が二つ付いていて、春になり土の中から虫がモゾモゾ出てくる様子を漢字一字でよく表しています。...


14 ファミリーコンサート
地元の音楽家らが生演奏 2、3カ月に1回—5年間 私が本格的に仕事をするようになった70年代後半(昭和50年代)の藤屋には、主に善光寺詣での団体や営業職の方たちが宿泊されていました。中でも、明治から続く善光寺参拝の「講」で、東京・新宿の「月信講」は古くから藤屋を常宿とされて...


13 姉弟2人の母親に
長野→横浜そして長野へ 気持ち新たに再び藤屋で 3年間の約束でオランダ・アムステルダムのホテルで働いたフィアンセの由良正史さんが帰国した翌年1968年3月、彼が藤屋へ婿養子に入るかたちで私たちは結婚しました。 夫となった正史さんは優し過ぎるくらい優しい人でした。しかし、世界...


12 永六輔さんとの出会い
婚約者の手紙によく登場 50年にわたるお付き合い 1964年、神戸港から貨物船で1カ月がかりでオランダ入りしたフィアンセの由良さんは、3年ほどの予定で現地のホテル「アムステルダムヒルトン」に就職しました。アムステルダムのスキポール空港は、いわゆるハブ空港で、その頃ヨーロッパ...


冬こそカルシウムを! 大豆入りドライカレー
2023年1月28日掲載 寒い冬の季節は外に出て日光に当たることが少なくなり、牛乳を飲む機会も減り、カルシウムの摂取量が減少しがちです。今こそ、カルシウムたっぷりの大豆と小松菜のメニューで骨を元気にしましょう! (県栄養士会北信支部)...


11 ホテル専門学校
実践に即した授業中心に 同級生の一人と結婚へ 自由学園の最終学年である学部2年生、20歳になった私はいよいよ次のステップを考えなければならない時期にさしかかりました。英語が好きだった私は、本音を言えば、海外に語学留学をしたい。かなわなければ語学学校で勉強したいと思っていまし...


寒さに弱いカメムシ
暖かい民家に移動 白い物に集まる習性 一年で最も寒い時期を迎えています。虫たちもそれぞれの方法で寒さを乗り越えていますが、成虫で越冬するものは、涙ぐましい努力をしています。 例えば、カメムシは成虫の姿で冬を越すというのに、残念なことに寒さにめっぽう弱いそうです。ある程度の寒...


10 独自の寮制度
学校同様「完全自治」の生活 5時半起床 洗面・掃除… 自由学園は独自の寮制度が注目されていました。地方出身の生徒や、近郊からの希望する生徒などが入る「清風寮」という女子寮が二つありました。第1寮には約150人、第2寮には約50人の普通科(中学)1年から学部2年までの生徒・...


09 自由学園の生活
昼食は生徒ら500人一堂に 学年ごと交代で食事作る 自由学園での生活が始まってびっくりしたのは、中学1年から学部(短大に相当)2年までの女子部の生徒ら500人が毎日食堂に集まり、昼食を共にしていたことでした。そしてその食事はすべて生徒たちの手作りでした。...


08 東京の自由学園へ
自治の生活を生徒主体で 三つのカルチャーショック 1957(昭和32)年、信大付属長野中3年生の私は、同級生と同じように普通に女子高を受験するつもりでいました。そんな私に、いち子母は、東京にある自由学園への進学を勧めました。諏訪出身のいち子母は発展家で、自分が入りたかった学...


水中で越冬する虫
表面の水が凍っても 池の中は4度のまま 冬は昆虫にとっても寒くて厳しい季節です。凍え死んだりしないよう、安全な場所を選んで冬を越しています。 例えば、トンボは、秋に卵を産むものが多く、冬の間は卵や幼虫の姿で、池や田んぼの用水路などの「水の中」で過ごします。種類によっては何年...


07 木下恵介監督
ロケ隊には全館貸し切り 藤屋総出24時間フル回転 私が小中学生だった昭和20〜30年代初頭、藤屋には多くの著名人が宿泊されました。中でも印象深いのは、木下恵介監督(1912〜98年)と木下映画のロケ隊の方々です。 木下監督は、景観が大好きだったという信州を舞台に十数本の映画...


138 ずくと知恵の遺産08 あしたに向けて
地域を育む人こそ遺産 信級小学校歌 浅井 洌作 その二 進み行く世におくれじと いとも広(ひろ)らにきずきたる 学びの庭の教草 栄えゆくこそ嬉(うれ)しけれ 日進月歩の世に遅れまいとする積極性、学ぶ営みへの熱い理想が、いまだ人を鼓舞する。「信濃の国」の作詞者、浅井洌の歌...


パーティーメニュ―に加えたいお手軽和風ナゲット
2022年12月17日掲載 チキンナゲットを家で作り、パーティーの食卓にのせてみませんか。常備野菜の白菜をさっと和風に、ごま油とショウガの香りを加えて煮て副菜に。和風の食卓メニューですが、ケーキとスープは好みのもので。ご飯をパンやパスタにしてもいいですね。...


06 著名人の思い出
スターの宿泊が知れると 玄関前には大勢のファン 私が小中学生だった昭和20〜30年代初頭は、テレビはなく、映画館は特に楽しい娯楽の場でした。私は小学生の頃から大の映画好きで、今の西鶴賀町の長野中央病院近くにあった「商工会館」に行っては、当時ブロマイドを集めるほど大ファンだっ...


05 実母ツキ死去
4人の子どもを残して 2番目の母はいち子さん 私の産みの母ツキは私が幼稚園年長の頃から結核を患い、藤屋の表に面した一室で療養していました。女性一人が付きっきりで看(み)てくださっていました。私が入り口のドアで「お母さん」と呼ぶと、「入って来てはだめよ」とまずそう言われるので...


137 ずくと知恵の遺産07 絶頂から急下降
時代の荒波 情け容赦なく 信濃の国 四番 尋ねまほしき 園原や 旅のやどりの 寝覚の床 木曽の桟 かけし世も 心してゆけ 久米路橋 県歌「信濃の国」は軽快・勇壮な曲が4番で一転、情感豊かに変わる。そのまま久米路橋や姨捨山などの歌枕を登場させ、再び歯切れよく5番の〈旭将軍 ...


04 日本舞踊を習う
「祇園祭」では屋台で踊る 各種行事で花束渡す役も 私が3歳になる少し前、1945(昭和20)年の終戦前の数カ月、家族の中で私だけが飯山の戸狩に疎開しました。藤屋には戸狩出身の従業員がたくさんいたので、つてがあったのかもしれません。ほとんど記憶にないのですが、夏の初めに千曲川...


03 物心ついた頃
番頭さんら従業員20人 皆元気が良くて働き者 最も藤屋が栄えた大正時代から太平洋戦争開戦くらいまでは家族の者は仕事に携わらず、夏は蓼科の別荘へ、冬は雪山のスキーや温泉へと余裕のある暮らしをしていたそうです。 私が物心ついてきた終戦直後の藤屋はまだ雇人も多く、支配人を中心に5...


カマキリの冬越し
泡に包まれた「卵のう」 冬の寒さから卵守る まもなく受験シーズンに入ります。今回の気象予報ムシは中学入試の理科でよく出題される「昆虫の冬越し」の話題です。 昆虫が冬を越す姿には「卵」「幼虫」「サナギ」「成虫」の四つのパターンがあります。...
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