05 実母ツキ死去
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05 実母ツキ死去

4人の子どもを残して 2番目の母はいち子さん

1955年ごろ、親子でお呼ばれした善光寺大本願で。後列右から2人目が私。前列右端がいち子さん。前列左から大宮智栄上人、一条智光副住職(後に上人)

 私の産みの母ツキは私が幼稚園年長の頃から結核を患い、藤屋の表に面した一室で療養していました。女性一人が付きっきりで看(み)てくださっていました。私が入り口のドアで「お母さん」と呼ぶと、「入って来てはだめよ」とまずそう言われるのです。そのためドアの外から「今日も寝ているなあ」と、離れた所から母を見て過ごしていたような気がします。母は、私が小学校2年に進級した春に、私から乳飲み子の弟まで4人の子どもを残して亡くなりました。母が亡くなった時の記憶はほとんどありません。

 母は熊本生まれで呉服屋の娘でした。父母がどのようにして知り合ったのかも知らずにこの年まで来てしまいました。 

 数少ない母の思い出ですが、小学校高学年くらいの時に藤屋の板前さんが「奎子さんのお母さんは本当に優しい人だった」と聞かせてくれました。板前さんは料理の腕は確かでしたがアルコール依存症で、お酒が切れると包丁を投げることもあったくらい。ある時お酒を盗み飲みしているのを見つけた母は怒らずに「そんなに飲んだら体に毒よ」と体を心配して声をかけてくれたそうです。

 またずっと後になってからのこと。毎朝藤屋のティールームに寄って、クラシック音楽を聴きながらコーヒーを飲み、再び社長車で出勤される建設会社の社長さんがいらっしゃいました。亡くなった父文三の同級の友達で、藤屋に遊びに来ると、祖母甫がお客さん並みの接待をしてくれて、いつも楽しみだったそうです。社長さんは、父母の結婚式にも出席していて「ツキさんはとてもきれいな花嫁でしたよ」と教えてくださいました。

 母ツキが亡くなった翌年、小学3年生の時のことです。義父の常夫さんが写真の束の中から1枚を私に見せて「この人どうだろう?」と聞きました。お嫁さん候補について、私の気持ちを確認してくれたのです。当時、4歳下の妹康子は床に伏しがちで、ばあやが付いていました。7歳違いの一番下の弟俊は2歳で結核を患っていました。常夫さんも体が弱く、子どもたちに母親がいないのは本当に大変だったのでしょう。

 見せられた写真にはぷくぷくととても太った着物姿の女性が写っていました。私は「いいと思う」と答えたと思います。

 諏訪から、いち子さんという2番目の母が嫁いできました。べったり甘えることはできませんでしたが、「私には父と母が2人ずついるのよね」と友達に話すこともありました。

 小学5、6年生の頃のことです。大門町の畳屋のご主人中惣さんが善光寺大本願の執事を務めていらっしゃいました。当時の大本願の智栄上人がお茶を教えてくださるというので、中惣さんの取り持ちで近所の女子小中高生5人くらいで週に1回ほど通うようになりました。

 最初のうちは、おいしいお菓子を食べたくて行っていたようなものですが、いつしか興味が湧いて中学3年生まで教えていただきました。智栄上人のお部屋はとても日当たりが良く、お年を召していたお上人様は、いつも優しく教えてくださいました。お正月に親子でお招きいただき、ごちそうになったのは楽しい思い出です。

 現在の鷹司誓玉(たかつかさせいぎょく)上人は、1955年にご親族と藤屋にお泊まりになり、お支度をされてここから行列を作って大本願の仏様の元へと入山されました。

 聞き書き・中村英美


2022年12月10日号掲載

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