10 独自の寮制度
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10 独自の寮制度

学校同様「完全自治」の生活 5時半起床 洗面・掃除…

自由学園では毎年学校行事として女子部全員が参加する集団登山があった。写真は、高等科1年の時、西穂高岳独標へ登る前に泊まった上高地の宿舎前で

 自由学園は独自の寮制度が注目されていました。地方出身の生徒や、近郊からの希望する生徒などが入る「清風寮」という女子寮が二つありました。第1寮には約150人、第2寮には約50人の普通科(中学)1年から学部2年までの生徒・学生が学校同様に「完全自治」の生活を送っていました。そこには先生や寮母さんなど大人の管理者はいません。時折何かの用事で寮を訪れた先生は、「おじゃまします」とあいさつしていました。

 8畳間が二つ続いた1部屋に、普通科1年から学部2年まで1人ずつ、だいたい8人が一緒に暮らしていました。各部屋の中央に火鉢が一つありました。学園のある南沢は、冬は霜柱が立つくらい寒く、そこへ素足、スカート姿で通っていたのですが、部屋の裸電球に手を差し出して暖を取っていたのを思い出します。押し入れ半間が1人ずつ割り当てられ、そこに布団から衣類、勉強道具を全部収めるようにしていました。

 朝は5時半に起きて洗面、掃除。朝食の係になった部屋の人たちは寮生みんなの朝食作りをして、全員が一堂にそろって朝飯を食べました。朝は、学園内のパン工場で焼いたパンにサラダ、飲み物などのメニューが中心でした。当時、長野の家ではみそ汁と卵かけご飯というのが普通で、サラダやドレッシングにいたっては藤屋の板前さんでさえ知らない時代。私にすればこれらのメニューはとても新鮮でハイカラなものに感じました。

 その後は当番の部屋の人たちが後片付けをして、ほかの人たちは勉強や個人の時間に使っていました。登校の合図で、みんなそろって寮を出て、学園生全体で始業のあいさつをする学園の食堂前に集合。帰寮後は、朝同様に夕食作りや食器洗い、風呂などの係が部屋ごと順番に回ってきました。

 私は高3の時、食料部になり、担当は肉の係でした。学園が運営する栃木の那須農場から豚の半身が運ばれてくると、それを肉屋さんが解体して学園のランチ用、女子寮用、男子寮用に分けてくれ、生徒らはリヤカーに積んで、それぞれの寮に運びました。学園の敷地は広大で、当時は砂利道のうえに坂も多く、友達と2人か3人がかりでやっと動かせていたように思います。食料部に限らず燃料のまきや石炭などの運搬にもリヤカーは欠かせませんでした。

 ある時、生徒も肉屋さんの解体を手伝って、最後はラードを寮に運んで大釜で油取りをする体験をしました。すると寮中どころか外にまでラードの臭いがするほどでした。しかし、途中でやめることもできません。強烈な臭いとともに食料部の思い出として今も強く残っています。

 高3と学部1年の2学年が女子部委員長や寮長などを務め、学園全体の自治生活の中心を担いました。私は学部1年の時に第1寮の寮長になり、忙しい日を過ごしました。

 私が通っていた頃の学園は学部2年を終えて卒業になるのですが、高3でほかの大学へ進学を希望する生徒もいました。その場合には大学入学資格検定、いわゆる大検を受ける必要がありました。約80人のクラスでしたが、10人くらいが辞めたと思います。

 学部生になると、2代目学園長であった羽仁恵子先生に朝食を作ってお出しする係をします。私も1週間くらいでしたが緊張しながら担当しました。この時、先生は「私も学園を背負って大変だけれど、あなたも今後おうちをやるようになると大変ね」とお声掛けくださいました。いつかは実家に帰るつもりでしたが、もう少し東京で勉強するにはどうしたらよいか、近づいてきた自分の進路を真剣に考えるきっかけになりました。

 聞き書き・中村英美


2023年1月21日掲載

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