02 父の背中

貧しくも家族に愛情深く 忘れがたいサーカス見物

海軍時代の父・森一(写真右)

 私は1953年、飯縄山に抱かれた牟礼村(現・飯綱町)高岡地区で、父・森一と母・うめのの長男として生まれました。姉が2人います。

 大正生まれの父は寡黙で威厳があり、近所の人からは「地域一番の働き者」と呼ばれていました。父の教えは私の人生の宝です。なので、まずは父のことから話します。

 20歳から10年間従軍した父は、海軍の下士官として「戦艦大和」に乗船しました。父はお酒が入るとよく当時の話をしました。山本五十六連合艦隊司令長官に食事を運ぶ係だった父はある時、山本から「君たちは何を食べているのか」と聞かれたそうです。「閣下と同じものを食べています」と答えると、山本は「そうか」とうれしそうな顔をしたそうです。その後、父は山本から別の戦艦に移るよう命じられて下船。それからしばらくして、「大和」は米軍の攻撃で沈没しました。

 「自分は山本さんに助けてもらった」「部下思いの優しい人だった」と振り返り、山本の「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」という言葉を、私たちに聞かせました。この言葉は、のちに私が後進を指導する立場になったときに何度も思い出しました。

 父は南太平洋ブーゲンビル島での戦闘で119人の戦友をなくし、自分もマラリアと飢えで生死をさまよった末に帰還。同じ地区の母と結婚しました。

 実家の田畑を耕しましたが食べていけず、近所の人から米やソバを買って、善光寺の宿坊や宿に行商して生計を立てました。トンネルのなかった当時、片道3、4時間かかる急勾配の砂利道を、時に40キロの米を背負って歩いたそうです。

 うちは貧乏でした。屋根はわらぶきで、戸はなく障子窓だったため、冬は雪が部屋の中まで吹き込んできました。馬小屋が家の中にありました。耕運機などない時代、馬は田畑を耕す重要な労力でしたから良い場所を与えられていたのです。家の中で蚕を飼っていた時は、夜中も蚕が葉っぱを食べて動く音がカサカサと聞こえました。

 暮らしは貧しくとも、父は家族に深い愛情を注いでくれました。それで思い出すことがあります。

 私が3歳か4歳ごろでした。善光寺辺りまで物売りに行っていた父は、城山公園に「木下大サーカス」が興行に来ていることを知り、家族を連れて行ってくれました。当日、私は母と2人の姉と共にバスで城山公園に向かいました。初めて乗ったバス、初めて目にするサーカス。あまりのうれしさに興奮していた幼い私は、行き帰りのバスに父の姿がないことにまったく気付いていませんでした。

 父が早朝、徒歩で家を出て宿坊に物を売ったお金でサーカスの料金を払ってくれたこと。家族でサーカスを見た後、父だけが歩いて帰ったことを知ったのは小学生になってからでした。

 初めて見た象やライオンの迫力。オートバイが大車輪の中をぐるぐる回転する芸の面白さは今も思い出せます。でも一番鮮明に思い浮かぶのは、目にしたわけでもないのに、往復8時間近くの道のりを一人歩く父の姿なのです。

 「勉強しろ」とよく怒られたし、美容師を志すときには反対されたこともありましたが、父への信頼は揺るぎませんでした。それは、家族のためにただ黙々と働き続けた父の背中を物心ついた頃から見て育ってきたからだと思います。

 のちに村会議員も務めた父は2000年、86歳で永眠。今年96歳になった母へは「長生きしてくれ」と願う毎日です。

聞き書き・村沢由佳


2021年9月18日号掲載