04 貧乏は嫌だ
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04 貧乏は嫌だ

負けず嫌いの性格を形成 「成功したい」と強い気持ち

小学5年生の時、飯綱でのキャンプ。中央が私

 身近で人の死を初めて経験したのは小学3年生の夏でした。同居していた父方の曽祖母が、朝は普段通りだったのに、私が学校から帰ると脳梗塞で亡くなっていました。私のことを大変かわいがってくれ、毎晩隣で寝ていました。記憶に残っている80歳くらいの曽祖母は腰が90度に曲がっていました。よく目が見えないのに、駆け回る私がけがをしないように見守ってくれていました。

 当時は土葬でした。体を小さく丸められてみそだるのようなひつぎに入れられた曽祖母を見てショックでした。

 恩師・山森綱江先生の転勤と曽祖母の死。大切な人が相次いで自分の前からいなくなった不安や寂しさは今でも覚えています。

 その頃、強くなってきたのは「貧乏は嫌だ」という気持ちです。60年前の当時の日本は、高度経済成長期に入っていたとはいえ、まだまだ経済的な豊かさは乏しく、村の中にも貧富の差がはっきりありました。新品の自転車やスキー板、おもちゃを買ってもらっている友達が心底うらやましかった。

 私はというと、リンゴ箱の上にシーツをかぶせたものが勉強机代わりで、スキー板は長い間、父が桜の木を熱で曲げて作った手作りの板でした。友達は、赤・青・黄色のかっこいい新品の子ども向け自転車なのに、私は、新聞配達でためたお金で、近所の魚屋から安く譲ってもらった中古の配達用自転車。真っ黒でごつい大人用でしたが、きれいに磨いて大事に乗りました。

 プラモデルやお菓子など、どんなにせがんでも買ってもらえないことが大半でした。甘いおやつなんて、砂糖湯か、曽祖母がたまにくれたかりんとうぐらい。冷たくて甘いアイスクリームを初めて食べたのは何歳ごろだったでしょう。あまりのおいしさにびっくりしたことをはっきりと覚えています。

 両親は朝から晩までずっと働き詰めでした。それなのに、「なんでうちはこんなにお金がないんだ」。納得できない私は、「本当はどこかに隠してあるんじゃないか」と疑ったこともあります。

 母方の祖父は村役場や県庁に勤めた人で、家は、太い大黒柱や縁側があり、居候を住まわせるほど広くて立派でした。遊びに行くたびに「親戚なのになぜこんなに違うのだろう」「いつかは自分もこんな家に住みたい」と思ったものです。

 ヘアショーや美容技術の大会で外国に行く機会が増えてから建築や美術への関心が強まり、自分の店は特色を出そうと設計にこだわりました。私が現在住んでいる自宅や、長野市景観賞の景観奨励賞を受賞した稲里店も、建築家ととことん話し合いました。私が建築に関心が高く、設計にこだわるようになった原点は祖父の立派な家に対する憧れだったように思います。

 「貧乏なんて大嫌いだ」「絶対金持ちになってやる」。小さい頃の私は口癖のようにそう言っていたと、大人になってから母に聞きました。

 負けず嫌いの性格は、「貧乏は嫌だ」と思い続けた少年期に形成され、成長とともに強くなっていったように思います。美容学校に進んでからは、技術を身に付けるために寝食を忘れて練習に打ち込みました。自分を支えたのは、「人に負けたくない」「いつか成功したい」という、負けず嫌いから来る強い気持ちでした。

 しかし、負けず嫌いの気持ちは、中学・高校時代は空回りしてばかりで、自分自身を苦しめることになるのです。

聞き書き・村沢由佳


2021年10月2日号掲載

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