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07 仕事と作家活動の両立

初の個展では苦い思い出 反省生かし次のプランへ

当時住んでいた米軍ハウスの部屋で、女性をテーマに写真作品を企画していた友人のためにモデルとして撮影した一枚

 東京芸術大学の4年生になった私は、中学校の先生になって、その傍ら作家活動をしようと、東京都の教員採用試験を受けましたが、まじめに試験勉強に取り組まず、当然の結果として不合格でした。次に、美術界という特殊で狭い世界で作品を発表するよりも、社会の中でクリエーティブな仕事をするのが良いのではないかと考え、レコード会社のジャケット部門や、イベント・ステージの舞台美術の制作会社の採用試験を受けました。多数の応募者の中から、最終選考の数人まで残りましたが、採用に至りませんでした。

 そうこうしているうちに大学は卒業になり、1979年、24歳の私は、収入を得るために、学習教材を販売する営業のアルバイトを始めました。時間の自由がきくので、作家活動と両立しやすいと思ったからです。

 夫の小松は、予備校の講師を辞めて、埼玉県川越市にある私立の中高一貫校の美術教師となり、作品も発表していました。最初に一緒に住んでいた国立市から三鷹市、神奈川県藤沢市と転居し、小松が川越で就職したのを機に通勤しやすい所を探して、入間市の元米軍ハウスに引っ越しました。米軍ハウスとは戦後、配偶者のある進駐軍・在日米軍軍人のために建てられた一戸建て住宅です。入間市には航空自衛隊の入間基地があり、戦後米軍が造った古い米軍ハウスがたくさん残っていました。日本家屋とは違って簡易な造りで、古かったものの、アトリエにぴったりの広さの割に安く借りられました。

 私は1年ほどでアルバイトを辞めて、ジュエリーのデザイン会社に就職しました。会社はまだ新しく、店舗を広げ、社員もどんどん増やしていました。若い女性向け、マダム向けなど、さまざまなジュエリーブランドを展開していました。袋に詰められた多くの宝石の検品から始め、最後は複数のブランドを担当して、ジュエリーデザイナーにコンセプトに合ったデザインを発注して、職人さんに型を起こしてもらい、最終的な商品になるまで価格や生産数も決める、企画の仕事をしていました。面白くてやりがいがありました。

 作家活動においては80年、東京の「Gアートギャラリー」を借りて初の個展を開きました。

 この初個展では苦い思い出があります。元々は風景画などのオーソドックスな油絵を展示しているギャラリーでしたが、前衛的な現代アートのギャラリーにリニューアルし、私がリニューアル後1回目の個展を開くことになりました。

 現代アートのギャラリーは通称「ホワイトキューブ」言われる、真っ白で無機質な空間がスタンダード。でもそのギャラリーはベージュ色の壁紙で、応接間のような雰囲気。現代アートのギャラリーにするにはまず壁から変えようと、若い作家たちがボランティアで集まり、ペンキで白く塗ることになりました。

 「白色のペンキだけだと真っ白過ぎるから、ちょっとグレーがかった色にしよう」という話になって、黒いペンキを混ぜたら大失敗。混ぜ具合を一定にできず、色むらだらけの壁になってしまいました。インスタレーション表現では、壁のむら塗りは表現の一部だと思われてしまうのです。

 しかし個展は翌日に展示のスケジュールで、もうどうしようもありませんでした。網戸の網を使ってギャラリーの中にさまざまな網の壁を作り、そこにテグスを絡ませる作品だったのですが、網のしつらえも洗練されておらず突貫工事のようなやり方で、しかも壁は色むらだらけという、情けなくも不本意な結果となりました。ただ、個展を1回開けば大成功につながるといったような幻想は抱いていなかったので、結果に意気消沈することはなく、反省を生かした次のプランを考えていました。

(聞き書き・松井明子)


2023年7月15日号掲載

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