seisaku@weekly-nagano.co.jp
新ロゴ決定案C95M35.jpg
Weekly Nagano

MENU

31 第二の人生

31 第二の人生

家族会議で分かった答え 「ナガコレ定着」が今の使命 東京からの撤退と事業縮小を決めた私は、粛々とその作業を進めました。築き上げたものを失うことは苦しい体験でした。しかし、全ての作業を終えた時、自分の中に残っていたのは意外にも心の平穏でした。...
30 再生へ

30 再生へ

苦渋の「東京撤退」「事業縮小」 転機の美容イベント関与 2011年3月11日に発生した東日本大震災。東北を中心に多くの命と日常を奪った大災害は、東京にも影響を与えました。電力制限や放射能への不安などで、街から人が消えたのです。...
29 負のスパイラル

29 負のスパイラル

税務調査や社員の独立…悩み絶えず眠れない日々 地獄の日々—。いま振り返ってもそうとしか表現できない毎日が始まったのは、東京・世田谷に2店目を開店した翌年の2005年のことでした。南千歳のAHA(アルファ・ヘア・アカデミー)で営業前に指導していると「大変です」と会社の経理担当...
28 絶頂期

28 絶頂期

念願かない表参道に出店 海外で仕事の機会増える 有名美容室がひしめく東京の原宿・青山エリアに「ALPHA表参道店」をオープンしたのは2001年、独立から20年の節目でした。原宿は、私が美容師として大きく成長させてもらった思い入れの深い地。20年前は家賃の高さから諦めましたが...
27 美容師養成機関の設立

27 美容師養成機関の設立

若手・ベテラン共に刺激 ALPHA全体の勢い加速 1986年、南千歳に開設した美容師養成機関AHA(アルファ・ヘア・アカデミー)は、一言でいうと「店舗兼美容を学ぶ場」。型破りなシステムと料金が特徴の新しい美容室でした。 新入社員がALPHA各店でお客さまを施術できるようにな...
26 スパルタ教育

26 スパルタ教育

竹刀で指導も反発に猛省 独自の育成機関を設立へ 「長野の美容界を変える」ことと並び、「力のある美容師を育てる」という目標にも私は本気で取り組みました。しかし、人を育てることは生半可なことではできません。失敗と後悔、試行錯誤の連続でした。...
25 注文の多い美容室

25 注文の多い美容室

「黄金比」重視 カットは月1 心も変えていく美容の力 オープンから半年、店の評判が広がり始めたことで、私のやる気も加速しました。 「長野の美容界を変える」。この目標のため、私は自分の美容への考えを技術や言葉を通して積極的にお客さまに伝えました。...
24 開店直後の難題

24 開店直後の難題

東京との「地域差」実感 「半歩先」提案のスタンスへ お客さまが少しずつ増えていくのと同時に直面した難題は、長野と東京の間にあった「地域差」でした。 原宿時代、一日に30人の顧客を担当して大変忙しかった私は、「黙って座ればピタッと当たる」をキャッチフレーズにしていました。「あ...
23 1号店オープン

23 1号店オープン

理想詰め込み7人で出発 完全予約制も客数少なく 1981(昭和56)年3月、南千歳に「SALON `d ALPHA(サロン・ドゥ・アルファ)」がオープンしました。美容師として、経営者として、私の新しい挑戦がここから始まりました。...
22 わが「いとしのエリー」

22 わが「いとしのエリー」

6歳下の後輩に愛の告白 3度目にまさかの大逆転 南千歳に自分の店を出すことを決めた私は、オープン間近まで原宿の美容室の仕事を続けました。長野と東京を行き来しながら開店準備と仕事に追われていたこのころ、私はもう一つ人生の大きな節目を迎えました。それは最愛の妻、通世(みちよ)さ...
21 長野出店を決意

21 長野出店を決意

美容界は「地方の時代」へ 長野の街に「伸びしろある」 お金に苦労してきた私ですので、東京で美容師として働き始めてからも自分の店を出すことなど「夢のまた夢だ」と思っていました。独立を決めた当初も、刺激のある東京を離れて長野に帰ることなど頭にありませんでしたが、動き始めると自然...
20 退職、独立へ

20 退職、独立へ

新人育成巡り社長と亀裂 自分のやり方で—と決意 パリの世界大会で、日本の大会関係者からの理不尽な要請に従った上、土下座までした私。土下座は高校の野球部時代、「しごき」で散々やらされていたので、それほど抵抗はありませんでした。ただ、この出来事以来、私の中で何かが変わりました。...
19 パリで土下座

19 パリで土下座

世界大会に出場果たすも 競技直前 理不尽な「力」が… 1979年、私はパリで開催される世界大会への出場を決めました。前年のCACF(現・FNCF フランス理美容連盟技術芸術院)主催のアジア大会で入賞し、世界大会に出場する日本代表3人の1人に選ばれたのです。美容師を志した時か...
18 店は大繁盛

18 店は大繁盛

街に人を呼ぶ仕掛け学ぶ 技術第一世界大会目指す 原宿の美容室店長となり、無我夢中で働いていた20代半ば、お客さまを介してファッションビル「ラフォーレ原宿」の初代館長を紹介されました。その人は、若者に人気が出始めていた原宿の「ブティック竹の子」の服を流行させて、「大勢の若者を...
17 原宿で店長に

17 原宿で店長に

美容師4年目での抜てき 馬車馬のように働く日々 1970年代半ば、私が働き始めた頃の原宿はおしゃれに敏感な人が集まる街というイメージの一方、八百屋や花屋など昔ながらの個人商店もあり、どこかのんびりとした風情が残っていました。それが数年後、「竹の子族」の流行を機に人の流れが絶...
16 「一真」を名乗る

16 「一真」を名乗る

大会出場用につけた名前 美容師としての情熱刻む 突然ですが、私の本名は「一彦」といいます。「一真」は、勤めていた東京・大井町の美容室に隠れて美容コンクール(大会)に出場する際、「本名だと店にばれてしまう」とつけた大会用の名前でした。...
15 コンクール荒らし

15 コンクール荒らし

店には内緒で大会に出場 念願の全国優勝を果たす パリで開かれた美容業界の国際見本市に、アシスタントとして同行するチャンスを手に入れたものの、ステージでいきなり金髪のモデルのブローをすることになり、質感の異なる金髪を何度試みても仕上げることができなかった私。この「失態」から立...
14 海外行きのチャンス

14 海外行きのチャンス

先生の助手としてパリへ モデルの金髪を初ブロー 1974(昭和49)年、美容師1年目の秋に訪れたチャンス。それはパリで開かれる美容業界の国際見本市でデモンストレーションを行うことになった錦織光弘先生が、同行するアシスタントに私を選んでくれたことでした。...
13 アシスタント時代

13 アシスタント時代

「向いていないかも」と不安 お客さまの応援が励みに 1年のインターン期間を終えて国家試験に合格した私は、ようやく美容師としてスタート地点に立つことができました。アシスタントへと立場が変わり後輩もできましたが、急に仕事の内容が変わるわけではありません。相変わらず掃除や洗濯など...
12 「ヘルプ」の仕事

12 「ヘルプ」の仕事

プロの技術を間近で学ぶ 先輩から「盗む」難しい習練 インターン時代、5カ月かけて店長からシャンプーレッスンの「合格」をもらった私の前に現れた次の試練は、接客する錦織光弘先生や先輩美容師の後ろに立って助手として動く「ヘルプ」の仕事でした。プロの技を間近で学ぶことのできる貴重な...
1
2

 © weekly-nagano  All rights reserved.