31 第二の人生

家族会議で分かった答え 「ナガコレ定着」が今の使命

3人の息子とその家族に囲まれる私(前列中央)と妻(左隣)

 東京からの撤退と事業縮小を決めた私は、粛々とその作業を進めました。築き上げたものを失うことは苦しい体験でした。しかし、全ての作業を終えた時、自分の中に残っていたのは意外にも心の平穏でした。

 「はさみ一丁で世界へ」と、美容師を志した時から「上へ、上へ」と自分を鼓舞しながら駆け上がって来た人生でした。「どこまでいけば満足するの」。ある時、妻にそう聞かれましたが、私は答えられませんでした。次々と新たな目標に挑むことは大変さの一方で、わくわくするものでした。しかし会社が成長するにつれ、苦しさの方が増えていたのだと気付きました。

 自分にとって本当に大切なものは何か。金もプライドも失って初めて、真剣にそんなことを考えました。その答えは、2011年の東日本大震災から半年後、東京撤退を決めた家族会議にありました。

 長男と次男は美容師として私の店で働き、三男は大学生でした。自宅以外の財産を処分しなければ立ち行かない状況を説明すると、寝耳に水だった息子たちは驚きました。しかし、「財産なんて残さなくていい。親父が元気でいてくれさえすればそれでいい」と言ってくれたのです。長男と次男は「(三男の)学費は俺たちでなんとかするから心配するな」とも言ってくれました。

 常に店のことで頭がいっぱいだった私は、子育ては妻に任せきりでした。幼い息子たちとの思い出は、たまにキャッチボールをしたことくらいしかありません。「こんなに優しく頼もしい人に成長してくれていたのか」。妻に心から感謝しました。そして思いました。俺は今まで何を求めていたのだろう。こんなに自分を愛してくれる家族を顧みず、自分のやりたいことや、華やかな世界ばかりを追いかけてきたことを悔いました。

 妻からは、「あなたの夢だからと応援はしたけれど事業を広げることより、もっと大切なものに目を向けてほしかった」と打ち明けられました。「原点に戻りましょう」。妻のその一言で、私はすべての重荷を下ろすことができました。

 その後、私は妻の勧めでクリスチャン(プロテスタント)のバプテスマ(洗礼)を受けました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23・1)という教えが深く私の心に響きました。「あなたに必要なものは十分に備えられる」という意味です。「私にとって必要なもの、大切な家族や社員、友人はすでに十分に与えられている」と思うと気持ちが満たされるのを感じます。

 経営者としては苦しい試練の連続でした。しかし、この試練があったからこそ、今の平穏があります。試練も私にとっては必要なものだったのでしょう。

 今は妻と3人の息子たち、その家族に囲まれてにぎやかな毎日を送っています。週に3日、サロンに出てお客さまを担当する傍ら、5月3日(火)に長野市で開かれる7回目の「ナガノコレクション(ナガコレ)」の準備に取り組んでいます。

 ナガコレの前身「irofes・ZENKOJI」に私を誘ってくれた女性はその後、亡くなりました。しかし、彼女の思いは「ナガコレ」にかたちを変え、今も引き継がれています。命が尽きるとき、人はお金や名誉、地位、何も持っていくことはできません。けれども、次の世代に伝えた思いや技術は受け継がれ、生き続けることができます。

 美容室の垣根を越えて多くの美容師が集まる「ナガコレ」は、美容師の技術を高めるだけではなく、美容の楽しさや素晴らしさを一般の方に伝えられる貴重な場です。「ナガコレ」が長野の文化の一つとして定着するお手伝いをすること。それが、「長野の美容界を変えたい」「腕のある美容師を育てたい」と情熱を注いできた私の、今の使命だと感じています。

 妻は「今が一番幸せです」と言ってくれます。そんな妻と共に、大切な家族と社員、出会った多くの方々に感謝しながらゆっくりと歩みを進めていきます。

 聞き書き・村沢由佳


 杉山一真さんのシリーズはおわり

 次回からは、高野総本店社長で、マスターソムリエの高野豊さんです。


2022年4月23日号掲載