23 長野五輪の翌年
top of page

23 長野五輪の翌年

板前修業終えた長男入社 会食客向けに料理宣伝

総ケヤキ造りのX型階段。藤屋の内部は当時の職人技が息づく建築様式を見てとれる

 長野冬季五輪の前年、1997年6月に藤屋旅館の建物は国の登録有形文化財に指定されました。善光寺門前町の歴史的な景観に貢献してきた点が評価され、長野市では初めての登録でした。

 その何カ月か前のこと。子どもたちが中学校の頃にお世話になった先生から電話をいただきました。この時先生は、長野市役所で文化財関連のお仕事をされていたようです。「文化庁の登録有形文化財の指定を受けてほしいと何度もお願いしているのですが」という内容でした。当時藤屋社長であった弟の弘が、その旨を伺ってはいたものの全く意に介さず、困った先生が私の方へ連絡をくださったのです。

 そこで私は「いただけるものであれば記念になるし、ここを建てたうちのおじいちゃんがとても喜ぶと思います。よろしくお願いします」と気楽に返事をしました。この時は正直なところ、それをさほど大事なこととは思っていませんでした。数カ月がたって、市役所から「登録を証明するプレートを受け取りに来てほしい」という電話をいただきました。私が「その日はとても忙しくて伺えないので、申し訳ないけれど郵送してくださいませんか」と答えると、相手の方は「困ります! ぜひ来てください」と言うのです。

 指定された当日。その日たまたま着物で働いていた私は、約束の時間間際にそのままの格好で慌てて市役所に向かいました。すると会場には、気後れするくらいの新聞社やテレビ局の人たちがたくさん集まっていて、「こんなに大変なことだったんだ」と驚かされました。「郵送して」などと言われて、市役所の人はびっくりしたんだろうなとも思い返しました。

 当時の塚田佐市長が、「この建造物は重要な国民的財産です」と、刻まれた青銅製のプレートを手渡してくれました。それを手にした私は、できるだけ長くこの建物を残していくのが自分たちの役目なんだと改めて思いました。そしてこの時初めて、国のお墨付きをもらうというPRの仕方があることを知りました。

 長野冬季五輪を境に長野を訪れる観光客の旅行の形態は大分変わってきました。新幹線に高速道路が開通し、県内外の大手ホテルが客室数を増やしたり、新規開業したりしました。主流だった団体旅行は、小グループや家族、個人旅行へと変化。長野は首都圏からの日帰り圏になりました。善光寺参りをして、泊まりは近くの温泉場へという流れもたくさん見受けられるようになってきました。

 その頃「談風会」の中心メンバーで八十二文化財団専務理事だった戸谷邦弘さんは、「俺はここの下足番だから」と、しょっちゅう藤屋に顔を出して「藤屋は低空飛行だけれど落っこちないね」と経営のことを気にかけてくださいました。

 長野冬季五輪翌年の99年、現社長で長男の大史郎が東京での板前修業を終えて藤屋へ入社、料理長として働き始めました。この頃から旅館としては、泊まりよりも会食のお客さまをターゲットに、息子の料理を宣伝して、昼間はそばだけを提供する時間も設けました。息子の打つそばはとても評判が良く、そば好きでなかった私もおいしく食べられるくらい。当時の田中康夫知事が、「長野の数あるそば屋のなかでも一番のお薦めは藤屋。でもあそこは旅館だからね」と宣伝してくださったようです。そば好きだった志の輔さんは公演後、そばどころの戸隠の若い人たちを呼んでそばを勧めていました。しかし、それでも会食の売り上げは、宿泊ほどはありません。どうにかしなければと、弘社長と私は深刻に考えていました。

(聞き書き・中村英美)


2023年4月22日号掲載

bottom of page