2 7代目
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2 7代目

会社と家庭 区別ない毎日 継ぐイメージごく自然に

祖母(左)と父と。中央で親戚の子どもを抱いているのが私

 1951(昭和26)年3月31日、長野市で生まれました。父は善助、母はヒサエ。家業は酒の卸・流通業で、元々は文久元(1861)年創業の小さな造り酒屋でした。先祖は旧豊田村(現中野市)の出身らしく、中野市にある西光寺の住職が今もお盆の時期には家にお経を上げに来ます。

 時期は定かでありませんがその後、長野市三輪に移ってきました。今、自宅となっている場所には造り酒屋の面影が残る土蔵や井戸があります。いろいろな物が転がっている土蔵の中は、子どもの頃、友達と宝探しでもするかのように、格好の遊び場所にしていました。

 造り酒屋から酒の卸・流通業に転換したのは4代目の曽祖父。明治初期に「長野で小さな造り酒屋をしているより、利き酒の能力を生かして大手の質のいい酒を仕入れて売っていった方がいい」と考えて、業態を変えたようです。

 曽祖父の代から続く方針があります。それが「ほかがしないことをやる」。日本酒と焼酎のみを取り扱い、寡占状態だったビールは、大手に主導権を握られることを嫌って仕入れはしませんでした。長野市議会議員を7期務めた祖父は、豪快でかなりやり手だったようです。会社の規模を拡大し、長野駅前の一等地にも事務所を構えました。

 6代目の父は真面目で堅実、「仕事が趣味」というぐらいの仕事人でした。戦争の影響で事業規模を縮小したものの、ビールは扱わないという「伝統」は受け継ぎました。

 母は学校の先生の傍ら、会社の事務もしていました。家には住み込みの社員が2、3人いて、寝食は一緒。取引先の人の出入りも多くて会社と家庭の区別もないような毎日でしたが、私は、そんな生活がにぎやかで好きでした。子どもの頃からごく自然に7代目を継ぐイメージを持っていました。

 休みの日も、両親と出かけることより、社員の運転する配送車に同乗してあちこち回ることがほとんどでした。いろいろな所に行けるのがうれしかった。配達先で「子どもなのにお手伝いか、偉いな」とお菓子をもらったりすることもちょっとした楽しみでした。

 小学4年生ごろまでは田んぼで米を作っていました。田植えも稲刈りも家族総出。手の空いている社員も加わってやっていました。一人っ子でしたが、若い社員がいろいろとかまってくれたので、遊び相手、遊び場所に事欠くことはなく、寂しさはありませんでした。

 父はしつけや教育について厳しくなく、母からは「勉強しなさい」と時々言われていました。小学校の成績はまずまずだったと思います。副ルーム長を務めたこともあります。

 性格はとにかくおとなしく、真面目さは父譲り。今でも覚えているのが、小学校入学前の運動会であった旗拾い。足が遅くて旗が拾えず、しまいには泣き出してしまいました。学校から帰ってくると会社の周りに水をまいて掃き掃除をするのが日課で、いたずらをして怒られた覚えもありません。

 低学年の時は、体があまり丈夫ではなく、月に1回、風邪をひいて学校を休んでいました。運動神経もいい方ではなかったので、体育は好きではありませんでした。ただ、三輪小4年の時の担任だった富井先生は野沢温泉村出身のスキーがとても上手な先生で、スキー教室で富井先生から教わりました。スキーが上達したおかげで、性格的にも少し積極性が生まれたように感じます。体も徐々に丈夫になり、あまり風邪をひかなくなりました。

聞き書き・斉藤茂明


2022年5月14日号掲載

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