「いくらでも協力するよ」 本陣小劇場 40年以上続く
戸隠の大久保の茶屋で初めてお目にかかり、ごあいさつさせていただいた永六輔さん(1933〜2016年)は、それから1年もたたない1965年ころから、長野にお仕事でいらっしゃった時には藤屋を利用してくださいました。
最初に来てくださった時のことです。ちょうど永さんが、NHKで生放送されていた音楽バラエティー番組「夢であいましょう」の構成を手掛けていた時期でした。永さんは、「僕は今、夢であいましょうっていう番組を受け持っていて毎週木曜日にはNHKにいるから、東京に来たらいらっしゃい。ごちそうするから」と声をかけてくださいました。まだ20代前半だった私は、そのお誘いを受けずにそのままにしてしまいましたが、今でも「行けば良かった」と残念に思っています。
30歳を過ぎて私が藤屋で再び働き始めた73年ころもまた年に1回程度はお越しくださいました。確かその頃の夏、どなたかのコンサートで永さんが司会をされるので、当時有名なジャズバンド「ビッグ・フォア」のメンバーと藤屋にお泊まりになりました。この時に私が運転して、皆さんを戸隠から野尻湖へご案内しました。夕立が通り過ぎたばかりの野尻湖畔には、数人のジーンズ姿の若者がいました。それを見た永さんが「ああいいなあ。ジーンズが似合うのは20代かな。今の僕には駄目だなあ」とうらやましそうにおっしゃっていたのを思い出します。永さんはちょうど40歳になる頃でした。
そしてこの頃のこと。藤屋にお越しになった永さんが「昼間は仕事があるけれど夜は空いているから、いくらでも協力してあげるよ」とおっしゃり、トークショーを始めてくださったのです。しかも「自分は昼間稼いでいるから、お金はいらない。投げ銭があれば積み立てて会場費に充てて」というのです。永さんのお話というので、友人や知人を通じて周りの人たちに声をかけるとすぐに100人くらいが集まりました。
それからは仕事で長野入りした際にはお話しする機会を設けてくださり、後に「本陣小劇場」と名前がついて40年余にわたって続くことになりました。ある時、「仕事に続いてのトークショーはお疲れでは」と心配すると、「僕は物書きと作詞が本業で、しゃべるとバランスが取れるから平気。あなたたちの笑顔を見るのが楽しくて来るの」と。「じゃあいつも笑っていないと」と素直に受けとめました。
たいがい永さんは昼間の仕事が終わって藤屋に帰り、夕方18時ころに開演というのが常でした。ただ早く帰ってくると、会場の2階の広間に上がって行ってお客さんが一人でもいれば話し出し、定刻になると「じゃあ始めましょう」とそのまま普通にお話しされていました。すると来ている人たちにそれがだんだん浸透して、当日皆さんが大分早い17時ころから永さんを待つようになりました。
ファミリーコンサートを開いていた時期に、永さんが「じゃあ僕もコンサートに出演して歌ってあげようか」と言ってくださったことがあります。私は驚いて「そんなお金ありません」と言うと、永さんは「僕は書きもので有名だけれど、歌手としては全く無名だからただでいいよ」とおっしゃるのです。でも恐縮して頼みませんでした。このことと、NHKに永さんを訪ねられなかったことの二つは、永さんに関しての私の悔やまれる思い出です。
当時、永さんは、俳優の小沢昭一さんと作家の野坂昭如さんと「中年御三家」を結成して武道館でもコンサートを開いていたほど。この後、折に付け歌ってくださった朝鮮の民謡「アリラン」や諏訪の木遣り歌、相撲甚句などは、また聞きたいと思うくらいすてきで、とてもお上手でした。
聞き書き・中村英美
2023年3月4日号掲載
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