134 ずくと知恵の遺産04 農道の開拓
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134 ずくと知恵の遺産04 農道の開拓

養蚕の近代化へ活路開く

信州新町越道。集落から集落へ農道がつなぐ

 ガーデンの 音高らかに 繭出荷

 老父は繭を 抱きて乗りゆく

            小池孝子

(信州新町公民館発行「養蚕の思い出」より)

 

 農道が開通するにつれ、傾斜のきつい山の集落にも、ガーデントラクターが走るようになった。それがどれほど山村の暮らしに心弾ませることであったか—。足と肩を泣かせた背負子(しょいこ)農業のつらさと比べれば分かる。

 信州新町山穂刈の金田道与さんは1928(昭和3)年戸隠村の生まれ。山穂刈村竹之下に嫁いで勝手の違ったのが、背負子だった。戸隠の方がまだ平らで背負子とは縁が薄い。身重というのに〈麦を背負ってその上に娘を乗せ、何度も山道を上り下りした〉

 63(同38)年6月、自ら「太平洋の架け橋」を任ずる駐日米国大使ライシャワーさんが、信州新町を訪れた。視察先の上条久保、清水正久さん宅は、先駆的な養蚕で知られていた。けれども後に、昭和9年生まれの妻みか子さんが語っている。

ガートラを運転する女性。「養蚕の思い出」掲載

 〈山道を「びく」を背負って、はばにつかまりながら、歩きました。よくあんなところを歩いたものだと、今では思います〉

 こうした背負子農業を脱しない限り、養蚕の規模拡大も繭の質向上も果たせない。出口を切り開いた一つが、昭和30年代後半の農業構造改善事業だ。西山地区にとって農道の開設を意味する歴史的曲がり角となる。

 当時の信州新町町長関崎房太郎さんが回想している。61(同36)年1月末、農林省(現農水省)の講習会でパイロット農業構造改善事業の構想を聞く。これだ!と感動と魅力を覚え、産業振興の突破口とすべく指定に向けて動いた—と。

 63年、全国92カ所、長野県内3カ所の一つとして信州新町で事業に着手した。小川村や中条村と隣接する越道(こえどう)から山上条にかけての山深い一帯を対象に、農道と桑園の開設が始まる。

 山の斜面を掘り崩したりするのに重機(ブルドーザー)が必要だ。自衛隊の払い下げを受け、岩手県盛岡から貨物列車で7日間かけて運んだ。高度経済成長期の入り口、時代そのものが若かった。

 ブルドーザーの走行用ベルトが急傾斜の山肌に食い込み、前面の排土板が土砂をひと押しするたび、1メートルも2メートルも道が形を成していく。それは山村を地響き立てて変容させるエネルギーとなった。

 農道が開くや、それまで背負子で桑などを運んでいたのが、リヤカーに代わる。ガーデントラクターが競い合うように普及した。もともと養蚕は女性が主役の仕事。若い嫁さんたちが笑顔で「ガートラ」のハンドルを握る。ここには確かに、背負子農業からの脱出があった。

 
一口メモ [桑の栽培]

江戸時代、幕府は山の傾斜地とか川の中州などに税を課さなかった。一方で米や麦を作る本田・本畑での桑を禁じたため、勢い桑の栽培は山地、川沿いの無租地で盛んになる。


2022年10月15日号掲載

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