製糸業隆盛の熱気弾みに
吾妻はやとし 日本武
嘆き給いし 碓氷山
穿つ隧道 二十六
夢にもこゆる 汽車の道
人の肩や馬の背、大八車などが頼りの道から汽車の道へ、大きな変革が訪れる。その最大級の一つが関東方面からの信州の入り口、碓氷峠に鉄道のトンネルが開いたことだ。
大昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)も苦労したという碓氷の山に、掘り抜いたトンネル26カ所。夢のような心地で今は越えてしまうと「信濃の国」は力強く、誇らかに歌う。深く切り込んだ谷をまたぐ橋は、18カ所を数えた。横川—軽井沢間を鉄路でつなぐ大工事である。
作業中の犠牲者が500人を超えた厳粛な事実が、いかに苦労の連続であったか語って余りある。標高差553メートルの急坂を上り下りできるよう2本のレールの間にもう1本、歯形のレールを敷き、機関車に備えた歯車をかみ合わせるアプト式が取り入れられた。
こうして碓氷峠に汽車の道が通じ、1893(明治26)年4月1日、上野—直江津間に鉄道路線が全通する。本州を南北に横断し、太平洋側と日本海側を結んだ。人も繭も生糸も運ぶ。以来、蚕糸業が大飛躍を遂げ、日本の産業革命を引っ張った。
この上野—直江津間のうち碓氷峠を越える横川—軽井沢間は、わずか11.2キロにすぎない。ここをアプト式の列車は、1時間15分費やした。今の新幹線ならば東京—軽井沢間の所要時間に近い。
最高時速9.9キロ、人が走って追い越せるほどのスピードだ。トンネルに入るたび機関車の吐き出す煙が、機関士や火夫を窒息させそうに苦しめ、乗客は顔を覆って耐える。
今から見れば遅くて過酷な峠越えだけれども、新幹線の快適さと比べてみてもさほど意味はあるまい。それまではもっぱら歩く旅だった。善光寺周辺から江戸まで普通は5日ほどかかる。それが11時間20分で行けるようになったのだ。
なるほど〈夢にもこゆる 汽車の道〉とたたえられたことが納得できる。その19年後には日本の幹線鉄道で最も早く電化が実現した。石炭を燃やす蒸気機関車が電気機関車に切り替わり、ばい煙地獄から解放される。
それでも歯車で動くアプト式、上り下りの行き違いができない単線という構造は、輸送力の厚い壁として立ちはだかった。加えて戦後の経済成長に伴い、軽井沢をはじめ沿線に観光客が急増する。
1963(昭和38)7月、アプト式に代わる普通の線路の新線が築かれた。それまでのアプト式の線路を使って複線化も実現した。こうして険しい碓氷峠越えに挑んだアプト式を軸とする70年の苦闘に幕が下りたのだった。
2022年4月16日号掲載
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