110 信州シルクロード02 和田峠越え
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110 信州シルクロード02 和田峠越え

明治期 生糸輸出の動脈に

旅人を助けた施行所

地理教育鉄道唱歌 第四集北陸編


24番


諏訪の湖水をみる人は


大屋をおりて和田峠


こゆれば五里の道ぞかし


山には馬も駕籠もあり

 

 長野県歌「信濃の国」が発表された1900(明治33)年、〈汽笛一声新橋を〉で始まる鉄道唱歌も登場した。この第1集東海道編を皮切りに第五集まで、同じ年に大阪の出版社から発刊される。

 4年前に全通していた信越線を含め、新潟や富山、金沢などと共に信州も舞台となったのが第四集北陸編だ。24番で大屋駅から和田峠、諏訪湖というルートが紹介される。

 これこそ明治の半ば、信州を蚕糸王国に押し上げたシルクロードの一つであった。蚕糸業が開拓した交通の基盤は、今日もしっかり息づいている。

 冒頭〈諏訪の湖水をみる人は〉が、岡谷市の前身である平野村はじめ輸出向け生糸を大量生産した湖周辺をイメージさせる。続く〈大屋をおりて和田峠〉が重要なくだりだ。

小県郡長和町和田の旧中山道

 今のしなの鉄道、旧信越本線大屋駅で下車し、和田峠経由、諏訪方面と往来していた時代がある。峠の道筋は時代とともに変わり、明治期は標高1531メートル。しかも峠を挟む宿場と宿場の間が5里余り、約22キロと長かった。

 中山道では最も苦労し、命にも関わるところだから、手助けする馬や駕籠も用意されている。人だけではない。米や塩などさまざまな物が往来した。

 製糸場の数も規模も拡大するにつれ、群馬県はじめ関東方面からも原料の繭が運ばれてくる。加工された生糸は逆に諏訪湖の周りから峠をまたぎ、再び大屋駅に集まった。

 もう一つ、蚕糸王国を引っ張った銀行の存在が大きい。製糸家の繭購入資金が峠をまたいで働いた。上田に本店を構える第十九銀行は1881(明治14)年、諏訪湖側のふもと下諏訪に出張所を設ける。器械製糸が勢いづく諏訪地域への進出だ。

 人も物もお金も動く。1905(明治38)年に中央線が岡谷まで開通する以前、和田峠越えは、信州シルクロードの幹線だった。ここから最大の輸出品である生糸が、信越本線の貨車に積み込まれ、東京回りで積み出し港の横浜へと向かった。

 江戸日本橋を起点とする中山道28番目の宿場、和田宿。難所を控えて規模は大きく、充実していた。今も「歴史の道」として保存され、本陣や旅籠(はたご)などの建物が、往時のにぎわいぶりを伝えてくれる。

 峠近くには、1800年代に設けられた永代人馬施行所が復元されている。風雪にさらされる冬、たき火でねぎらうとともに人には粥(かゆ)一杯、牛馬には小桶(おけ)一杯の煮麦を施す。人情味の温かく通う道でもあった。


2021年10月2日号掲載

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