106 糸の村・糸の町33 下伊那の産業組合
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106 糸の村・糸の町33 下伊那の産業組合

発電・医療分野まで幅広く

復元した養蚕農家の居間(高森町歴史民俗資料館)

 糸繰る乙女

 丘にや 工場の煙が立って 村の製糸の 笛が鳴る

 ヤンレ 協同の旗印 さんさ日は照る 工場の窓に

 湯気に乙女の 心がほてる ヤンレ 話せぬ胸の中

 

 蚕糸業を不況の暴風にさらした1930(昭和5)年の恐慌。2年後の満州国建国、そして日中戦争、太平洋戦争と破局へ向かう頃だ。

 次々舞い込む赤紙で召集され、村から若い男性が減っていく。中には裂かれた恋もあっただろう。下伊那郡竜丘村(現飯田市)の組合製糸竜西館の工場では、切ない慕情をのぞかせる工女たちの歌が口ずさまれた。

 養蚕農家が繭を出し合い、自分たちで糸を繰る組合製糸が下伊那に登場したのは、13(大正2)年の山吹村(現高森町)が最初だった。上伊那に比べ5年遅れである。上伊那側の組合に下伊那からも一部加わった事情が絡むかもしれない。

 以来、静岡、愛知県境に至るまで広く、それぞれの地域に特色を生かした組合製糸が、次々に創立されていった。先駆けた山吹村の大正館は最盛期、工女約200人、工男20人の工場に成長した。

繭の集荷でトラックが出入りした天竜社

 上伊那の竜水社同様の連合体を目指す動きも始まる。曲折を経ながらも結成された伊那社は、結成翌年の21(大正10)年に30組合の大同団結を果たした。さらに昭和初めの大恐慌乗り切りのため、衣替えして再結束したのが天竜社である。

 下伊那の産業組合が特徴的だったのは、発電や医療の分野でも地域を支えたことだ。天竜川右岸の竜丘村では13年、全国初の電気生産組合が発足し、15年3月送電を始めた。

 当初700灯の契約見込みが811灯で出発、12月には1284灯へ急速に普及する。それまで石油ランプを頼りに蚕を飼っており、農家の火災が多かった。そんな養蚕農家の事情に配慮した発電だ。料金も安く抑えて喜ばれた。

 左岸の喬木村では22年から産業組合製糸富田館が、無医村の悩み解消に取り組んだ。診療所を開き、招いた医師の給与も富田館が支払う。治療を受けた組合員は、代金を個人口座の繭代で清算できたので、現金を用意する必要がなかった。

 今とは違って交通不便な大正時代の無医村だ。組合製糸の歩みをまとめた天竜社発行「協同の礎伊那谷の天竜社 蚕と絹の歴史」が、当時の無医村の深刻な一端を伝える。

 交通不便な集落の名を具体的に挙げたうえで〈一度病気にかかると、死ぬより仕方がないと言われ、遠く飯田や松尾の病院に患者を運ぶのは、組合衆が戸板または荷車に乗せ…〉。組合製糸の背負った重い課題であった。


2021年7月24日号掲載

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