103 糸の村・糸の町30 信濃絹糸
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103 糸の村・糸の町30 信濃絹糸

くず繭を宝の山に生かす

糸の町丸子の中心上丸子地区

丸子小唄 土谷泉石作歌 作曲


(二)

 丸子よいとこ 来てみやしゃんせ

  イト キイト サノ サ

 並ぶ煙突 はく煙

  イトサ イト キイト サノヨイヤサ 

  イトサッサッサ

 

 “糸の町”丸子を全国的に特色付ける一つに、絹紡糸の製造があった。生糸にはできない「くず繭」などを生かして作る絹糸だ。その担い手の企業が信濃絹糸である。

 器械の進歩で生糸の大量生産・大量輸出に道を開いた製糸業ではあった。しかし一方で大量のくず繭もはね出される。生糸の品質が原料繭の良しあしによっても左右されるため、繰糸の前に繭の選別を厳しくするからだ。

1871(明治4)年11月から2年近くかけ、岩倉具視全権大使率いる使節団が米欧先進国を視察した。大久保利通、伊藤博文ら一行が英国を訪れた際、織物工場で上等な絹製品を目にした。

1923年ころの信濃絹糸

 すると、原料は「あなた方の国から輸入するくず糸だ」と言うではないか。確かに当時の日本では役立たずと見なし、投げ売り同然で輸出していた。そこで大久保らのまず取り組んだのが、官営屑糸紡績所の創設である。

 場所は群馬県の旧多野郡新町、現在の高崎市内だった。器械製糸の官営富岡製糸場が開業して5年後、77(同10)年のこと。ここから数えて41年後の1918(大正7)年、信濃絹糸の創業である。

 旧小県郡殿城村(現上田市)生まれ、金子行徳(1878〜1965年)の着想だ。金子は上伊那郡小野村(現辰野町)で友人と製糸場を経営し、その不安定ぶりを身にしみて知る。もっと堅実さを求めた絹紡糸への転進だった。

 その歴史をたどって2003年、シナノケンシ社内の絹糸紡績資料館が発行した冊子は、題名を「無から有への挑戦」としている。実に象徴的である。

 製糸場からは不要のくず繭、蚕種の製造では蛾(が)を発生させた後の出殻繭など、糸の町には原料が豊富だ。それを11もの機械工程で帯状の繊維にし、生糸にも負けない柔らかで暖かく、肌触りの良い絹紡糸へ加工する。

 まさに無から有を生ずるに等しい。けれども時代は、ほぼ10年後に世界恐慌である。生糸や繭が暴落し、蚕糸業全体が衰退に向かう中、絹糸紡績業は最盛期にあって深刻な経済不況を下支えした。

 美ケ原や霧ケ峰などを源流とする依田川沿いの平地は、かつて広々とした桑園だった。そこに製糸結社の依田社が興り、信濃絹糸が加わって〈並ぶ煙突 はく煙〉の工業地帯になる。生糸と絹紡糸の両方を手掛けたところは、長野県では丸子だけだった。


2021年6月12日号掲載

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