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05 大学時代

3年生の時親友を亡くす 人生観変わり進路を決意

 2年間の浪人生活の末、多摩美術大学に進学できたものの、父親の病気見舞いなどのため4月のオリエンテーション期間中に大学へ行かなかった私は、友達ができないままアパートに引きこもってばかりいました。鬱々として物事が手につかず、絵を描くこともなく、テレビを見たり音楽を聴いたりして気を紛らわせていました。

 父が亡くなり、母は長野の自宅近くのそば店で働くようになりました。学費や仕送りは、遺族年金などで補ってもらい、私はアルバイトをしなくても東京で生活できました。授業に出ず、留年が決まった時、正直、母から大学を退学するよう言われても仕方ないと思っていました。私のために頑張ってくれた母にはとてもありがたく感じたものです。

 翌年、キャンパスが上野毛(世田谷区)から八王子市に移転したのを機に、私は心機一転、大学生活をやり直すことにしました。一年遅れで友達もでき、授業を受けて単位をきちんと取得しました。サークルには入らず、たまに看板製作のアルバイトを頼まれましたが、あとはギターを弾いたりマージャンをしたりしていたものです。

 3年生になると将来の仕事を考えるようになりました。グラフィックデザイン科の学生の多くは広告会社にデザイナーとして就職する道を考えていましたが、私はイラストレーターになりたいと思っていました。自ら絵を描かない広告デザインの仕事ではなく、私は自分の絵を描きたかったのです。

 当時、会社に所属するイラストレーターはいなかったので、自ら営業して広告会社から仕事を取ってくるフリーのイラストレーターになるしかありませんでした。毎月決まった給料をもらえる会社員と違って、収入の保証はなく、不安定な生活を覚悟しなくてはいけません。とても迷いました。

 自分の作品を会社などに見せて回る準備をしていた大学3年の10月、私は一人の親友を亡くします。

 その日は、静岡の彼の実家で朝4時までマージャンをしていました。近所に住むほかの友人は帰宅しましたが、私は彼と同じ部屋で寝ました。彼の異変に気づいたのは、正午ごろ、起こしにきた彼の母親でした。彼は心臓停止状態でした。その後の調べで分かったのは死亡推定時刻が朝4時ごろ、つまり、寝た直後だったということです。

 「同じ部屋にいたのだから、私が気づいていれば助かっていたかもしれない」。大きなショックとともにある種の罪悪感を覚えた私は、夜寝られず、日が昇る朝方に寝るような昼夜逆転の生活を送るようになりました。当時、同居していた兄は地方勤務だったためアパートに帰っても一人だけ。誰かと一緒にいたかった私は友人の家を転々とするようになりました。授業の欠席も多く、2度目の留年が決まりました。この頃は、私の人生の中でもあまり思い出したくない最もつらい時期でした。

 その後、元気を取り戻した私は親友の死を通して「人間はいつ死ぬか分からない。一度限りの人生なのだからイラストレーターの道を進もう。やるだけやってだめでも生きていくことはできる」と思ったのです。

 聞き書き・広石健悟


2024年8月10日号掲載




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