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特集 祈りの道に切り開かれた信州シルクロード

 新たな年のスタートに当たり、この先一年の平穏な暮らしを願う。

 初詣の人波に加わっていると、いつも感ずることがある。車で電車で徒歩で人それぞれにやって来た四方八方の道—。それは今現在の躍動する場であると同時に、遠い過去につながる道でもある、ということだ。

 例えば、善光寺信仰の広がりにつれ、善男善女が憧れを抱き、ひたすら歩いて善光寺を訪れ、時を重ねて「善光寺道」と呼ばれる、祈りの道のルートが形成されていった。それは実に多方面に及んでおり、善光寺に通じる道はすべて善光寺道とされるほどだ。

 こうした長い時間軸でみると、近世以降の工業、近代の世界貿易によって切り開かれた信州シルクロード、絹の道の歴史は、むしろ新しい。欧米に生糸が輸出される明治以降のことだ。

 原料の繭を運び、製品の生糸を運ぶ道路、鉄道が開発される。それは日本の近代化そのものだった。しかし、何もないところで始まったのではない。いわば善光寺道をはじめとする祈りの道の広い基盤の上に、新たな役割と活路を担って切り開かれた道と言えるのかもしれない。

 今なお古い街道筋のあちこちに、立派な常夜灯が彩りを添えている。風雨にさらされ、文字も判然としなくなった石の道しるべが、かつては旅人の案内役だった名残を伝えてくれる。

 時にはそれらをたどりつつ、私たち一人一人の来し方行く末に思いを巡らしてみたい。


 

塀も垣根もなく誰にも開かれた善光寺

厳かな祈りに似た芭蕉の句

元日は 田毎の日こそ恋しけれ 松尾芭蕉

 

 えっ、田毎の日? 田毎の月、じゃないの? そんな戸惑いが聞こえてきそうだ。

 一句仕上げるにも練りに練り、推敲(すいこう)に推敲を重ねた俳人松尾芭蕉である。ごく初歩的な言葉遣いを間違えるはずもない。

 素晴らしく天気に恵まれた元日。この輝かしい初日を田毎の月の田に映したならば、どんなに見事なことだろうか。ぜひ眺めてみたいものだ—。

 こんなふうに解釈できる。1689(元禄2)年正月の作。前年の「更科紀行」の旅を踏まえ、田毎の月を田毎の日としたところに、俳諧らしい面白みが生まれた。

 月の名所で知られる信州さらしな・姨捨の里(千曲市)は、小さな田んぼが山裾に、段々をなして耕される棚田の里でもある。

 五月ごろに水が張られると、その田一枚ごとに月影が宿り、「田毎の月」の名で人気が高い。

 1688(貞享5)年8月11日、芭蕉は岐阜を出発して中山道の木曽路をたどり、更科の名月を目指す。

 信濃に入ってからは立峠(1010メートル)、猿ケ馬場峠(964メートル)といった難所を越え、無事8月15日、姨捨伝説の地で中秋の名月を観賞する思いを遂げた。

 さらに16、17日と合わせて3夜〈三よさの月見 雲もなし〉の境地に浸っている。その折、善光寺に立ち寄った後、坂城、上田など北国街道を東へ。軽井沢の追分からは中山道を江戸へ向かった。

 善光寺は古来、広く開かれた寺として知られてきた。女人禁制などと偏狭な排除に走ることなく、貧富や宗派を超えておおらかに、誰でも受け入れる。

〈月影や四門四宗も只一ツ〉

 更科紀行の旅で芭蕉は、善光寺のことをこう詠んだ。月影、つまり明るく、あまねく、隅々にまで照らす月の光の下では、あれこれの違いを乗り越え、すべて一つになっていることよ—。懐の深い感慨に行き着いた上での一句ではないだろうか。

 もともとの目的、姨捨山の名月との巡り合いに続く善光寺だけれども、そこに込められた芭蕉の思いは、厳かな祈りにも似ている。

 芭蕉が信濃を旅してほぼ半世紀後、善光寺参りをはじめ伊勢神社、秋葉山などに参る庶民の旅がブームを呼ぶ。

 ことに江戸と京・大坂を結ぶ中山道、その追分宿や洗馬宿からの善光寺道は、江戸時代半ば以降、善光寺への祈りの道として、多くの旅人が行き交うようになっていった。

 そういう意味では芭蕉の「更科紀行」は、祈りの道・善光寺街道に先鞭(せんべん)をつけた旅と言えなくもない。


 

犀川のほとりに立つ丹波島の渡し記念碑

「真っすぐに」ひたむきな一茶

真っすぐに かすみ給ふや 善光寺  小林一茶

 

 善光寺まで残り約4キロ、あと一歩のところまでたどり着いた旅人の前に、犀川の急流が立ちはだかる。北国街道最後の難所だ。

 信越境の柏原宿に生まれた俳人小林一茶は、1791(寛政3)から1817(文化14)年にかけ、江戸との往来を繰り返した。何度か犀川の渡しの場に立っている。そして川向こうに延びる一本の道、田や畑が一面に広がる中を真っすぐ続く北国街道を目にした。

 その先には、善光寺の大きな屋根がかすんでいる。「かすみ給ふ」と最大級の親愛の情を込めたところが、善光寺を敬うこと人一倍強かった一茶らしさだ。

 北アルプスや木曽谷北部の降水を集め流れ下る犀川は、本流の千曲川より水量が2倍も多い。1890(明治23)年9月、初めて木製の橋が完成するまで、北国街道を通って渡るには主に小さな舟が頼りだった。

 両岸にくいを打ち込んで太い綱を張り、それを船頭がたぐるようにして乗客を運ぶ。雨で増水したりすれば、川止めとなって渡れない。流れが緩まるのを待つか、上流の小市、あるいは下流の松代方面へ遠回りしなくてはならない。

 善光寺を目の前にしているだけに、無事に向こう岸に到着した時のホッとした気持ち、喜びは、どれほど大きかったことだろうか。車で、あっという間に通り過ぎる現代社会では、容易に想像しにくい感動だ。

 一茶は一句の冒頭で〈真っすぐに〉との表現を用いた。これは街道が直線で善光寺に通じることのみを意味するのではあるまい。阿弥陀如来の加護を信じ、現世の幸せと来世の極楽往生を願う。そのひたむきな祈りの道をイメージしてのことでもあったはずだ。

 犀川越えを控えた北国街道丹波島宿は、犀川と並行して設けられた。宿場の出入り口、犀川堤防の脇には、丹波島の渡し記念碑が威風堂々と立つ。一茶の俳句はそこに刻んである。晩年の句日記「文政句帖」から選ばれた。

 1822(文政5)年2月の作。一般庶民の善光寺詣でが、いよいよ盛んになってきた頃だ。時代の空気を捉えるのに鋭敏な一茶だ。芭蕉の更科紀行がそうであったように、街道は優れた文学の生みの親でもあった。


 

復元された大笹宿関所跡

抜け道歩き目指す善光寺さん

揚雲雀 見聞てこゝに 休ふて 右を仏の道と 知るべし  佐藤正道

 

 ヒバリが空高く舞い上がり、さえずっている。のどかな姿を眺めたり声を聞いたりしながら、ここらで一休みしてください。この先、右へ向かえば仏の道、目指す善光寺さんに行き着くのだから—。

 こんな意味になるだろうか。群馬県吾妻郡嬬恋村、浅間山の麓に「抜け道の碑」と呼ばれる道しるべがあり、刻み込まれている。

 それにしても、抜け道とは穏やかでない。何か後ろめたいことでもそそのかすかのようだ。とりわけ場所が場所。程近く、信州と上州を結ぶ大笹街道が、川沿いを通っている。旅人を監視する関所まである。

 そこをあえて通らず済ませられるように、浅間の山側へ遠回りする間道があった。あからさまに「右 善光寺」などとは言わず、歌の一句で「右を仏の道」と知恵を働かせた。作者の佐藤正道は大笹宿の俳人だ。

 江戸幕府が警戒したのは「入り鉄砲に出女」。江戸城下に鉄砲、つまり武器弾薬の類いが持ち込まれること。そして城下に住まわせた全国各地大名の妻、娘らが脱出すること。これらは謀反の兆候と見なす。

 街道の要所要所で関所が見張る。特に女性の旅人には、時間をかけて念入りに調べた。できることなら逃れたいと思うのが人情だ。抜け道が用意され、手引きする人も現れる。

 江戸末期、1859(安政6)年ごろに完成の女性の旅行記「東路(あずまじ)日記」に、ちゃっかり抜け道を利用するくだりが登場する。筆者は現在の福岡県北部、筑前の商家の内儀(おかみ)小田宅子(いえこ)だ。

 50代で家業を子に譲り、時間も金もある。同じ恵まれた境遇、似た年頃の女性4人連れ立って、お伊勢さん詣でに出掛けた。荷物持ち兼護衛役の男3人を従える。伊勢まで行けば善光寺へ、となるのが当時の人気コースだ。一行7人も中山道経由で善光寺街道を目指す。ところが途中、木曽妻籠宿の手前から大平峠の険しい山道にそれ、飯田へ。伊那谷から塩尻を通って善光寺道を歩いた。

 大変な苦労だが、すべて木曽福島宿の関所を避けるためだった。帰りの東海道五十三次でも、同様に甲州街道、秋葉街道まで延々と抜け道を選び、箱根などの関所をかわしている。しかも常に歌を詠みつつ、おいしいものを食べ、名所を見物し、名産品を買い込む、優雅で明るく楽しげな道中である。

 寺社詣でだけではない。江戸時代も終わりに近づくにつれ、温泉も大いににぎわった。

 東海道など主要街道はもちろん、網の目のような脇道を含め、大勢の旅人が行き交った。人の流れの大波小波に、物々しい関所ものみ込まれ、抜け道が半ば普通の状態になっていた。

 約260年に及ぶ江戸幕府の封建体制が緩みつつある。と同時に、近代へ踏み入る民衆のエネルギーの勢いでもあったに違いない。


2022年1月1日号掲載

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