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私の歩み 藤井奎子さん
My history Fujii Keiko
27 ご縁
「ケア・フレンズ長野」に参加 国際協力NGOの拠点に 2006年に旅館からレストラン・結婚式場「THE FUJIYA GOHONJIN(ザ・フジヤ・ゴホンジン)」に業態転換してしばらくしてからのことです。みすずコーポレーション会長夫人の塚田稲子さんが訪ねていらっしゃいました...
26 旅館の女将
「昔」と「今」をつなげる役目 いろいろな出会い 良き人生 藤屋旅館のリノベーションでは、建物が国の登録有形文化財に指定されているため、外観はそのままで、内装もできる限り保存し、庭の木々も極力残すかたちで半年かけて改装しました。客室は結婚式場3室とレストランに。敷地の一角に新...
25 リノベーション
結婚式場・レストランへ 357年続いた家業を閉じる 1998年の長野冬季五輪から数年がたち、旅館の経営は厳しさを増していた冬の夜のことです。長野市の建築会社と大きな商店の人が、ある会社の若い社員2人を藤屋に連れてきてくださいました。当時、全国の各都市でクラシックな建物を利用...
24 回想・旅館のお客さま
お望みはまかないカレー 清水先生の無邪気な一面 清水要之助先生(1902~93年)は、能の観世流シテ方の最長老で、年に数回ほど長野の先生たちに教えにいらしていました。2階の広間から流れてくる朗々たる先生のお声を、私は1階のフロントでうっとりと聞きほれていました。毎回お昼は、...
23 長野五輪の翌年
板前修業終えた長男入社 会食客向けに料理宣伝 長野冬季五輪の前年、1997年6月に藤屋旅館の建物は国の登録有形文化財に指定されました。善光寺門前町の歴史的な景観に貢献してきた点が評価され、長野市では初めての登録でした。 その何カ月か前のこと。子どもたちが中学校の頃にお世話に...
22 呉さんとの思い出
私たち家族を韓国に招待 戒厳令下のソウルを案内 藤屋をよく利用されたお客さまで韓国ソウルの会社社長の呉(オオ)根赫さんとは、忘れられない数々の思い出があります。呉さんは私より年上で、戦時中はお兄さんと生き別れになるなどつらい思いをされたようです。浦和高校を出て韓国の大学を卒...
21 花岡堅而先生
「藤屋のためになることを」 呼び掛けを機に本づくり 私が9歳の頃、諏訪から藤屋に嫁いできたいち子母は、早くから県日中友好協会に入り長く役員も続けていました。その関係もあって、医師の花岡堅而先生(1910〜97年)が度々藤屋を訪れてくださいました。花岡先生は戦時中に軍医として...
20 ピーコさんとの出会い
「大門曼荼羅」出演きっかけ 「お姉ちゃま」と呼ばれる 1987年の大門町のまちおこしイベント「大門曼荼羅」にお呼びしたゲストでファッション評論家のピーコさんもまた、藤屋と親交を深めてきたお一人です。 私が最初にお会いしたのはこのイベントの何カ月か前でした。下諏訪の温泉旅館で...
19 立川志の輔さん
永さんが落語会に出演依頼 数年後 藤屋で「やりたい」 落語家の立川志の輔さんが藤屋に初めて見えたのは、1987年11月のことでした。藤屋博覧会後、こういうにぎわいを街に広げようと、永六輔さんが企画した「大門曼荼羅(まんだら)」で、永さんがゲストの一人としてお呼びしたのです...
18 藤屋博覧会
永さんの発案から始まる 予想上回る2千人の来場 藤屋のティールームでお茶を飲んでいらした永六輔さんが「藤屋博覧会をやってみない? お宝はあるし、イベントと合わせて旅館中を使ってやったら面白いよ」とおっしゃったのは1987年のこと。藤屋で毎年1回開いた永さんのトークショー「本...
17 仕事と子育てと
忙しく目まぐるしい日々 責任感の強い姉 優しい弟 藤屋での女将修業の時期は、今でいうシングルマザーとして2人の子育てとともにありました。藤屋で再び働き始めた頃、長女香苗は4歳、現在藤屋の社長として頑張ってくれている長男の大史郎は2歳でした。当初は県庁近くの乳児院に預けてい...
16 永六輔さんとの思い出
「いくらでも協力するよ」 本陣小劇場 40年以上続く 戸隠の大久保の茶屋で初めてお目にかかり、ごあいさつさせていただいた永六輔さん(1933〜2016年)は、それから1年もたたない1965年ころから、長野にお仕事でいらっしゃった時には藤屋を利用してくださいました。...
15 劇団の常宿に
役作りでハイヒール履く 杉村春子さんの努力に敬服 私が藤屋で本格的に仕事をするようになった1970年代から80年代にかけては、全国に広がる演劇鑑賞団体「市民劇場」の活動が盛んで各地で演劇鑑賞会が開かれていました。長野でも長野市民劇場が企画した公演が年に6〜7回あり、藤屋は日...
14 ファミリーコンサート
地元の音楽家らが生演奏 2、3カ月に1回—5年間 私が本格的に仕事をするようになった70年代後半(昭和50年代)の藤屋には、主に善光寺詣での団体や営業職の方たちが宿泊されていました。中でも、明治から続く善光寺参拝の「講」で、東京・新宿の「月信講」は古くから藤屋を常宿とされて...
13 姉弟2人の母親に
長野→横浜そして長野へ 気持ち新たに再び藤屋で 3年間の約束でオランダ・アムステルダムのホテルで働いたフィアンセの由良正史さんが帰国した翌年1968年3月、彼が藤屋へ婿養子に入るかたちで私たちは結婚しました。 夫となった正史さんは優し過ぎるくらい優しい人でした。しかし、世界...
12 永六輔さんとの出会い
婚約者の手紙によく登場 50年にわたるお付き合い 1964年、神戸港から貨物船で1カ月がかりでオランダ入りしたフィアンセの由良さんは、3年ほどの予定で現地のホテル「アムステルダムヒルトン」に就職しました。アムステルダムのスキポール空港は、いわゆるハブ空港で、その頃ヨーロッパ...
11 ホテル専門学校
実践に即した授業中心に 同級生の一人と結婚へ 自由学園の最終学年である学部2年生、20歳になった私はいよいよ次のステップを考えなければならない時期にさしかかりました。英語が好きだった私は、本音を言えば、海外に語学留学をしたい。かなわなければ語学学校で勉強したいと思っていまし...
10 独自の寮制度
学校同様「完全自治」の生活 5時半起床 洗面・掃除… 自由学園は独自の寮制度が注目されていました。地方出身の生徒や、近郊からの希望する生徒などが入る「清風寮」という女子寮が二つありました。第1寮には約150人、第2寮には約50人の普通科(中学)1年から学部2年までの生徒・...
09 自由学園の生活
昼食は生徒ら500人一堂に 学年ごと交代で食事作る 自由学園での生活が始まってびっくりしたのは、中学1年から学部(短大に相当)2年までの女子部の生徒ら500人が毎日食堂に集まり、昼食を共にしていたことでした。そしてその食事はすべて生徒たちの手作りでした。...
08 東京の自由学園へ
自治の生活を生徒主体で 三つのカルチャーショック 1957(昭和32)年、信大付属長野中3年生の私は、同級生と同じように普通に女子高を受験するつもりでいました。そんな私に、いち子母は、東京にある自由学園への進学を勧めました。諏訪出身のいち子母は発展家で、自分が入りたかった学...
07 木下恵介監督
ロケ隊には全館貸し切り 藤屋総出24時間フル回転 私が小中学生だった昭和20〜30年代初頭、藤屋には多くの著名人が宿泊されました。中でも印象深いのは、木下恵介監督(1912〜98年)と木下映画のロケ隊の方々です。 木下監督は、景観が大好きだったという信州を舞台に十数本の映画...
06 著名人の思い出
スターの宿泊が知れると 玄関前には大勢のファン 私が小中学生だった昭和20〜30年代初頭は、テレビはなく、映画館は特に楽しい娯楽の場でした。私は小学生の頃から大の映画好きで、今の西鶴賀町の長野中央病院近くにあった「商工会館」に行っては、当時ブロマイドを集めるほど大ファンだっ...
05 実母ツキ死去
4人の子どもを残して 2番目の母はいち子さん 私の産みの母ツキは私が幼稚園年長の頃から結核を患い、藤屋の表に面した一室で療養していました。女性一人が付きっきりで看(み)てくださっていました。私が入り口のドアで「お母さん」と呼ぶと、「入って来てはだめよ」とまずそう言われるので...
04 日本舞踊を習う
「祇園祭」では屋台で踊る 各種行事で花束渡す役も 私が3歳になる少し前、1945(昭和20)年の終戦前の数カ月、家族の中で私だけが飯山の戸狩に疎開しました。藤屋には戸狩出身の従業員がたくさんいたので、つてがあったのかもしれません。ほとんど記憶にないのですが、夏の初めに千曲川...
03 物心ついた頃
番頭さんら従業員20人 皆元気が良くて働き者 最も藤屋が栄えた大正時代から太平洋戦争開戦くらいまでは家族の者は仕事に携わらず、夏は蓼科の別荘へ、冬は雪山のスキーや温泉へと余裕のある暮らしをしていたそうです。 私が物心ついてきた終戦直後の藤屋はまだ雇人も多く、支配人を中心に5...
02 父は32歳で他界
叔父が藤屋継ぎ母と結婚 2歳前の私が戸籍筆頭者 1942(昭和17)年、戦争の真っただ中の8月の暑い日、私は藤屋の居宅で生まれました。父は藤屋14代目の藤井文三=当時30歳、母はツキ=同24歳。両親にとっては初めての子どもでした。私は、低出生体重児、いわゆる未熟児でした。お...
01 14代当主の長女
善光寺宿の本陣を務めた 藤屋と80年間歩みを共に 善光寺門前町として発展した大門町界隈は、江戸時代には北国街道の善光寺宿として栄えていました。 1648(慶安元)年創業の藤屋は、加賀前田藩など参勤交代の大名らを迎える「本陣」を務めてきました。 明治以降も皇族をはじめ、伊藤博...
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