05 中学時代

部活も勉強も熱が入らず 最後の最後に厳しい現実

野球部のユニフォーム姿の私

 大人になってから、旧牟礼西中学時代の友人と再会すると、「お前が社長になったなんて」と、よく驚かれました。そう思われるぐらい、私は存在感の薄い生徒でした。

 部活動は、小学6年生の時に地元の少年野球チームに入って始めた野球部に入りました。そもそも野球を始めたのは、家の農作業を手伝いたくなかったという動機から。そんな消極的な考えで野球が上達するはずがありません。3年間補欠でした。

 勉強もまた熱が入らず、「人に負けたくない」という気持ちはあっても、何のために勉強するのか分からないままで、成績は上がりませんでした。登校して授業を受けて、部活に出て帰宅。友達とも遊びましたが、私の中学生活は記憶に残らない毎日の繰り返しでした。

 高校は、「自分の成績で行けるところでいい」という程度しか考えず、ここなら合格できるだろうと思って選んだ公立高校を受験しました。

 入試当日。1時間目は国語でした。開始5分後、おなかが痛くなり、手を挙げてトイレへ。それまでも緊張すると腹痛を起こすことはありましたが、大切な高校受験の本番で腹痛とは。教室に戻ったのは終了10分前。多くの解答欄は空白でした。

 2時間目の数学ほか、残りの科目は結構でき、「なんとか合格できるのでは」と思いました。

 当時は、ラジオで高校の合格発表が流れました。私は朝早くから家族とラジオを聞きましたが、私の名前と受験番号は発表されません。新聞の合格者名簿にも私の名前はありませんでした。

 翌日、母と共に中学校に呼ばれ、先生と、「浪人」か、私立高校の2次募集を受けるか話し合いました。「お前は勉強が嫌いだから浪人は無理だろう」と先生に言われました。そして、私立長野中央高(現・長野日大高)の2次募集を受験することにしました。

 帰り道、たくさんの同級生と会いました。合格者は、不合格者と入れ違いに午後学校に集合することになっていました。晴れやかな顔の同級生たちは「落ち込むなよ」「元気出せ」と、声をかけてくれました。励ましの言葉とは分かっていても、その時の私にとって、逆効果にしかなりませんでした。

 悔しくて、情けなくて、家に帰って号泣しました。「もう生きていけない。死んでしまおう」。はだしで家を飛び出した私は雪が積もる飯縄山へ登りました。しかし、死ぬことはできませんでした。足が凍傷になりかけて前へ進むことができなくなった私を、探しに来た姉が見つけて、家に連れ帰ってくれました。母は「お前、こんなことで死んだら意味がないよ」と言いながら、一生懸命足をさすってくれました。

 ただただ時間をやり過ごすだけの中学生活を送っていた私は、最後の最後に厳しい現実をたたきつけられました。

 「人から慰められる人生なんて嫌だ」。心底そう思いました。

聞き書き・村沢由佳


2021年10月9日号掲載