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(6) 卒業制作

「センス」評価され「優秀賞」 岡学園で教職に就く道へ

師範科(2年生)の学年末の課題「フォーマル」で制作したプリーツドレスを着た私
師範科(2年生)の学年末の課題「フォーマル」で制作したプリーツドレスを着た私

 ドレメ(杉野学園ドレスメーカー女学院)での学生生活はとても厳しい上に、忙しいものでした。日々の授業が、そのまま作品を作り上げていくプロセスになっており、1こま逃すと、その授業時間のことが分からなくなってしまいます。ブラウスにしろ、ジャケットにしろ、工程はどんどん進んでいきます。遅れた工程を取り戻すのは容易なことではありません。


 結果的に私は3年間ほぼ休むことなく、提出物もすべてクリアしました。不思議なもので、必死でやっていると、たくさんのことを吸収して、成果も出てきますし、もっとうまくなりたいという意欲も湧いてきます。作り上げた作品に先生の評価が加わることで、次は「もっとこうしたい」と考えるようになりました。すると自分の中にはいろいろな喜びも生まれて、知らず知らずのうちに精神的にも肉体的にも鍛えられて強くなっていったように思います。

デザイナー科(3年生)卒業時に賞を頂いた記念として制作したドレスを着る私
デザイナー科(3年生)卒業時に賞を頂いた記念として制作したドレスを着る私

 長野を離れて東京で暮らし始めた頃は、祖母が時々、段ボールに私の好物や、10円玉をいっぱいに詰めた瓶を何本も入れて送ってくれました。携帯などない時代。時折、実家が恋しくなると、その瓶を持って公衆電話に行き、私のことを心配してくれる家族の声を聴いて励まされるようなこともありました。


 ドレメ3年生、デザイナー科で学んでいた夏のことです。ドレメの創設者である杉野芳子先生(享年86)の訃報が全校に知らされました。2日後に学内葬が営まれるとのこと。ついては学生は全員喪服を着用、持っていない人は自分で作って着ることが申し渡されました。

 私を含めて多くの学生が一斉に校内の売店で黒の布を調達。みんな大急ぎ、ほぼ一晩で喪服を縫い上げて葬儀に間に合わせなければなりませんでした。学内葬の日は、献花に並ぶ数千人の学生たちの黒い列が目黒駅まで続いていたのをよく覚えています。


 前述の通り、芳子先生は、日本の服装史を切り開いてこられました。母からも恩師として尊敬する思いを幾度となく聞いてきました。私は、直接教えていただくことはありませんでしたが、芳子先生との別れは非常にショックで悲しいものでした。


 この年の秋の終わりごろからは、卒業に向けて最終作品の制作が始まりました。私はそれまで学んできた裁縫はもちろん、色彩や手仕事を大切にし、ピンクのシルクデシンという生地で、胸元にビーズ刺しゅうをちりばめたタイトなドレスを作りました。この卒業制作で、図らずも「優秀賞」を頂きました。バランス感覚や、とりわけ「センス」を評価していただいたことがうれしかったのを思い出します。


 1980(昭和55)年当時、同期生の就職先はオートクチュールの店やアパレルなどでしたが、全国から集まってきた学生たちは出身地に戻る人も多く、まだ良妻賢母が当たり前という時代が続いていて、結婚する人も少なからずいました。


 私は、デザイナーになりたいという目標を抱き続けていました。一方で、自分が学んできたことを、母が続けてきた学校の中で生かしたいとも考えました。母から戻ってきてほしいと言われていたわけではありません。母の苦労をずっと近くで見ていましたし、高校生の時に心配をかけたという思いも強く、自分が少しでも助けになれればと、長野に戻り岡学園で教職に就く道を選びました。

(聞き書き・中村英美)


2025年2月22日掲載


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