日本酒のことかなり勉強 「将来的にはワイン」とも
大学を卒業するとすぐに家業の高野総本店に入りました。大学時代から長期の休みには帰郷し、仕事を手伝っていたので戸惑うことなく会社に溶け込め、会社の先輩も〝7代目〟の私を「豊さん」と呼んで歓迎してくれました。
まず配属されたのは、私の希望もあり、トラックでの配送。長野高校近くにあった倉庫から軽トラックや2トン車に乗り込み、約600軒あった取引先を回りました。酒屋さんの数も今よりかなり多く、小川村や旧鬼無里村、旧戸隠村(いずれも現長野市)にも通いました。山の中の集落とはいえ、JAの酒売り場には百本単位で納めていました。長野市内には当時五つの卸業者があり、規模は拮抗(きっこう)していました。
配達をしていると、このお得意さんはどういった商品をどれくらい扱っているか…といった営業状況や将来性、ライバル社の動向などの裏事情が見えてきて、若い私には勉強になりました。弊社では納品の際、お得意さんの倉庫の整理を独自に行っていて「倉庫がきれいになる」と喜ばれていました。
当時は木箱で一升瓶が10本入り、重量は約30キロ、それを多い時で150箱から200箱運んでいたので、かなり体力がつきました。70歳を過ぎた今でも精力的に動けるのは、この時に鍛えた体力のおかげかもしれません。
配送エリアは新潟県の上越地方から長野県の最南端まで。地域ごとにそれぞれの特性がある上、店ごとにも人間性や商売の仕方に違いがあり、それに合わせてコミュニケーションをとるように心がけていました。この時の経験は後に営業マンになった際に役立ちました。
若い頃は決められた仕事を淡々とこなしていた感じでしたが、そんな中で描いていたのは、弊社の特色でもある日本酒については「地域一番」を取ること。その気持ちでかなり勉強しました。新潟の酒蔵に行き、泊まり込みで工場長に学びました。
この頃の酒屋さんは、地域の名士といった人が多く、知名度も高かった。それなりに風格もあり、若い私は一目置いていました。大きい店だと1回で運ぶ量が一升瓶千本ぐらい。今の酒屋さんの約10倍の量です。今の若い人はピンとこないでしょうが、当時の酒屋さんはそれぞれの市町村の商業界においてはかなり力を持って活躍していたのです。残念ですが、当時元気だった酒屋さんも看板を下ろしたところが多く、半分ぐらいに減ってしまったのではないでしょうか。日本酒を巡る状況は華やかな時代でした。
当時の活況を物語るものに「初荷」があります。1月2日の午前零時から車に旗を立てて酒屋さんに正月を祝う商品のお酒を持って行く恒例の「行事」です。その準備が元日夜からあり、正月もなく忙しかったですが、活気があっていつも以上に気合が入りました。
この頃、弊社のワインの取り扱いは全体のわずか1%程度でした。24歳で入社した私は、5年ぐらいたった頃「将来的にはワインかな」と思うようになりました。世界的な傾向として、フランスならワイン、ドイツならビールといったその国の国民酒の需要が減っていたためです。日本もこの流れになり、日本酒が減って、その代わりになるとしたらワインだろうと思ったのです。
休みの日にはワインの勉強を兼ねて有名なレストランに出かけていました。どうやってワイン人気を高めて取引を増やしていくかを模索し始めました。
聞き書き・斉藤茂明
2022年6月4日号掲載
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