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25 リノベーション

結婚式場・レストランへ 357年続いた家業を閉じる

藤屋の庭にある福寿稲荷に事業転換を報告する「報告祭」をした時の記念写真=2005年9月19日

 1998年の長野冬季五輪から数年がたち、旅館の経営は厳しさを増していた冬の夜のことです。長野市の建築会社と大きな商店の人が、ある会社の若い社員2人を藤屋に連れてきてくださいました。当時、全国の各都市でクラシックな建物を利用して結婚式場やレストラン事業を展開していた東京の「Plan・Do・See(プランドゥシー)」という会社です。

 暗い応接間にお通しして話を伺うと、「藤屋の建物が素晴らしいので、これをリノベーションして結婚式場とレストランにしてはいかがでしょう」と言うのです。藤屋を何とかしなくてはという思いはありましたが、もし建物を貸せば350年続いてきた「藤屋」の名前は消えてしまいます。「建物をお貸しするのは無理です」と申し上げました。すると、「ノウハウをお教えするので、藤屋さんでやりませんか」という話になったのです。私は「まさか結婚式場?」とびっくりしましたが、まず息子で現社長の大史郎ががぜん興味を示して食いつきました。その後のプレゼンテーションの席では、息子はやる気満々で、「プランドゥシー」の会社側に立って一生懸命説明していました。そこには建設会社から銀行までいろいろな会社の人たちが出席していました。

 何となくその方向に向かっているのを察した私は、「プランドゥシー」が経営する東京、京都、神戸の建物を半年かけて見て回りました。どこも昔の建物を上手にリノベーションしてすてきなレストランになっていました。特に京都の「ザ ソウドウ東山京都」は、横山大観と並ぶ日本画壇の重鎮であった竹内栖鳳(せいほう)の昭和初期の邸宅をリノベして残した立派なところでした。

 その頃の「プランドゥシー」は起業10年目くらい。若い社長は、自分の理想とするブライダルレストランに夢を持っていました。今は若い人たちの憧れの企業に育っています。

 「この会社なら藤屋の建物を上手に活用してくれる」と、私もその方向に心を進めました。社長も若ければ、設計者たちもみんな若い人たちでした。この人たちと話す中で、全員が、自由学園の校舎で重文指定を受けた「明日館」を設計した世界的建築家フランク・ロイド・ライトさんを尊敬している人たちであることが分かりました。もう若い人たちに任せて、私は口を出すまいと心に誓いました。ただ、この事業に当たり、長野の建築界の第一人者であった宮本忠長先生に助力を仰ぎました。宮本先生は、昔から藤屋の建物に興味を持ってくださり、「藤屋本」では建築美について書いてくださっていました。先生は「藤屋のファミリーの一人として参加させてください」と快く承知してくださいました。

 もう一人、ずっと藤屋の経営を心配してくださっていた八十二文化財団専務の戸谷邦弘さんに相談しました。戸谷さんは「東京からのお客さまの接待はみんな小布施に行ってしまうから、長野にそういうところができるのは大賛成!」と後押ししてくださいました。

 2005年9月、庭に鎮座するお稲荷さんに357年続いた家業であった旅館業を閉じることを報告しました。昔から受け継がれてきた藤屋として大事なものは残し、ほかは従業員、同業者、飲食業の人たちへ差し上げ、後は玄関に出して、欲しい人たちにお持ちいただきました。布団百組は善光寺北側にある活禅寺に引き取っていただきました。片付けはそれまで経験したことがないほど大変な仕事でした。

 もう一つ私の仕事は、旅館をよく利用いただいたお客さまへのお知らせでした。特に永六輔さん、志の輔さん、ピーコさんには長い手紙でその旨を伝えました。永さんははがきでいつものように「お疲れが出ませんように」と気遣ってくださいました。

 聞き書き・中村英美


2023年5月13日号掲載

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