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24 回想・旅館のお客さま

お望みはまかないカレー 清水先生の無邪気な一面

山上先生が常夫社長に手向けてくださった白い菊を描いた作品

 清水要之助先生(1902~93年)は、能の観世流シテ方の最長老で、年に数回ほど長野の先生たちに教えにいらしていました。2階の広間から流れてくる朗々たる先生のお声を、私は1階のフロントでうっとりと聞きほれていました。毎回お昼は、そば屋を営むお弟子さんの店のおそばを食べるのが常でした。ある時、先生をご案内していると、その日の藤屋のまかないのカレーの香りが流れてきました。先生は「僕も食べたいなあ」とおっしゃいました。私が「田舎のカレーでお芋やニンジンゴロゴロのですよ」と言うと、「そういうのがいい」とお望みになるのでお持ちしました。すると先生は「次からもカレーね」とおっしゃるのです。その時からは、先生の宿泊日に合わせてまかないはカレーになりました。威厳があり、かくしゃくとした先生でしたが、とても無邪気なかわいらしい一面を見せていただいたような気がしました。

 洋画家の山上嘉吉先生(1901~91年)は、春と秋の年2回、善光寺の裏山にあるリンゴの木が花を咲かせ、実を付けた様子を描きに来ていました。農家の方もいつ先生が見えてもいいようにその木を大事にしていました。義父の常夫社長が亡くなった時には、白い菊の花の絵を手向けてくださいました。仙人のような、すがすがしいお姿とお人柄の方でした。

 善光寺のお膝元ということもあるのか、旅館業の時代は藤屋を自分の命を終わらせる場所に選んだ人が何人かいらっしゃいました。私が携わった中でもあの日ことは今でも忘れられません。

 私が50代後半の冬、雪が降る寒い日のこと。関西から60歳前後の男性2人連れのお客さまが見えました。お二人はいとこ同士。九州から関西に集団就職し、親戚の結婚式で久しぶりに再会して善光寺へ足を延ばそうということになり、藤屋に宿を取ったのだそうです。夕食にお酒も飲んでとても楽しそうにしていらっしゃいました。

 夜10時を過ぎた頃。自分の部屋に引き上げた私のところに夜行番の番頭さんから電話がきました。フロントに戻ると、そのお客さまの1人がぼうぜんと立ち尽くしていました。部屋ではもう1人が首をつっていました。すぐに下ろして、布団に寝かせましたが、救急車が来た時には亡くなっていました。1人がお風呂で部屋を離れた時のことでした。

 私がお通夜の支度を整え、一晩ついてあげようと思っていたところに若松町の交番の所長さんが見えて、一緒にお通夜をしてくださいました。「私がここにいるから少しでも横になってきて」とおっしゃってくださり、とても心強く思いました。翌日には息子さんが迎えに見えて、お礼をおっしゃってお父さんをお連れになっていきました。

 この騒動に私はいち子母を呼びませんでした。翌朝、起きてきた母に顚末(てんまつ)を話すと、「これであんたに譲れる。私は安心して引退できる」と声を掛けられました。いち子母は徐々に横になる時間が増えてきていた頃で、今になれば私が藤屋の女将(おかみ)であることを初めて自覚した出来事だったかもしれません。

 時を置かずしてやはりとても寒い冬の遅い夜のことです。弟の弘社長から、新しく着いたお客さまに「お茶を入れて」と連絡があり、お部屋に伺いました。お客さまは座布団を使わず畳の上に座っていました。鍋、釜を持ち、今でいうならホームレスの生活をしていたのでしょう。私はいつも通りにお茶を入れて「どうぞごゆっくり」と下がりました。翌朝、部屋を片付けに行くと、布団は全く使われていませんでした。寒くて旅館に来たのだろうに、汚い格好で布団に寝てはいけないと思ったのでしょうか。高潔で立派な人に思えて、今でも鮮明に覚えています。

 聞き書き・中村英美


2023年4月29日号掲載

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