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23 校名を変える

  • 6月28日
  • 読了時間: 3分

創立60周年を機に決断 「デザイン」を柱に学校改革

岡学園に隣接して建設したエコマコ本社アトリエ(2006年)
岡学園に隣接して建設したエコマコ本社アトリエ(2006年)

 1996年、38歳の時に母から、校長のバトンを引き継いだ私は時を同じくして、幼い頃からの夢だったデザイナーとしての活動も本格化していきました。世界各地でのファッションショーの開催や、オリジナルブランド「エコマコ」を立ち上げてのビジネス展開。その活動を評価していただき、地元では「信毎選賞」、海外では「スティービーアワード賞」など数々受賞。エコロジーデザイナーとして大きなやりがいを感じながら走り回る日々でした。


 しかし、学校に立ち戻ると、私が校長に就いたころの岡学園は、アパレル産業の台頭や、東京への若者流出など時代の波に押され、徐々にではありますが、学生数を減らしていた時期でした。周辺の洋裁学校も閉校し、ファッション分野だけでは、地方の専門学校としては厳しい時代に入っていました。


 当時、母に自分が校長になることを申し出た時は、私自身の活躍が必ず学園の維持や発展につながると信じ頑張り続けたものの、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の格言のように、自身の目指す活動と学園の安定的な運営の両立を図ることの難しさに直面しました。


 ずっと思い悩んだ末に校長になって9年目の2005年のある日、私は思い切って母に「学校をやめることを考えてもいいか」と相談しました。母はそれをしばらく黙って聞きつつ「ここまで頑張ってやってきたのだから、もうやめてもいいんじゃない」と答えました。


 母は自分が歩んできた苦労を娘にこれ以上かけさせたくないという思いから「あなたが背負い続けることはしなくて良いよ…。自分のやりたい道を進みなさい」と言ってくれました。いつも私の頑張りと苦労を間近で見守り、そして誰よりも私の活躍を喜んでくれていた母…。一方、時代の大変さも身に染みていたからこそ掛けてくれたその言葉でした。創立者として、母として、その複雑な気持ちを娘として感じながら「そうだね」と言ってしばらく黙っていた私に、「ただね、卒業生にとって母校がなくなるのは寂しいものよね」と母はポツリと言いました。


校名変更のお知らせをした60周年時の同窓会報
校名変更のお知らせをした60周年時の同窓会報

 この言葉は私の心の中にずっと残る言葉となりました。母校が亡くなることの寂しさ…。その一言には60年間送り出してきた何千人という卒業生の人生があり、その一人一人の母校として、この学校は存在しているということ。


 私は学校を閉じるという決断が自分一人の問題ではなく、継続することがどれだけ大きな意味を持つのか改めて考えさせられ、思いはいつしか「存続」へ変化していきました。


 折しも学校は60周年を迎えようとしていました。そんな母娘の会話から本当の意味で覚悟を決めた私は、ファッションの専門学校として60年間親しんでいただいてきた校名から、これを機に「OKA学園トータルデザインアカデミー」と変える決断をしたのです。


 「デザイン」を柱とした専門学校として、今までのファッションに加え、「デザインビジネス科(グラフィック)」を開設。私自身がエコマコのビジネス展開を通じて、社会での必要性を感じてきた「ビジュアルデザイン」や「ビジネス」の重要性をもっと学生たちに伝えていきたい。校名を変えるリスクは大きいものでしたが、これからはさまざまな分野での「デザインの力」が重要な時代になると信じて新たな学校改革へと挑戦していくことになりました。

(聞き書き・中村英美)


2025年6月28日号掲載

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